クロッキー作品群2004 SEP 12のための

モデルたけしのポージンメモ

第1・第2シリーズ:「作品否定論」による実験
 暗黒舞踏の世界に、作品否定論という考え方があることを知って以来、モデルとして表現できるのか、ずっと考えていた。作品否定論によると、人間が頭で考えた作為や行動が、人間そのものの存在を超えることはありえない。人間の存在が全ての前提だから、人間の作為や行動の結果による「作品」よりも、その人の存在そのものにより大きな意義がある(以上、モデルの主観的な解釈)。しかし、人間という生物は大脳が発達しすぎて、頭でっかちになってしまった。日常生活も科学の作為のかたまりの中でしか動いていない。モデルによるポーズも、作為から離れることはできないし、離れれば只の木偶人形になってしまう。そこで、今回のクロッキーは、次のように2段階に分けた実験を行った。第1段階では、大脳を持たない身体各部にポーズをとらせた。そして、第2段階で自分の意識を身体から分離させ、描き手さんの目から自分を眺めた。そこには、私から離れた巨大な部位(私の背丈の何倍、何十倍もある腕や脚)が、荒れ野や砂漠に転がっていたり、積乱雲の中浮かんでいたりしていた。これが、描き手さんにどう映ったのだろうか・・・モデルとしては、大脳を空白にさせるのは難しい作業だったが・・・。

第3・第4シリーズ:「J・POP」による実験
 以前、クラシック音楽に、身体を動かさせたことがある。それには、自分でも手応えを感じた。しかし、音楽はクラシックだけではないし、音楽の中でクラシックだけを芸術と言い切るのも早計である。そこで、今回、頭の中にポップスを流してみた。只々、流し続けた。
第3シリーズ「君といる時間の中で」(唄・詩:平原綾香、曲:小林信吾)
 キーワードは「夕陽」。人には、それぞれ大切な人がある。そして、その人と今も未来も、ずっと一緒に居たい想いがある。大切な人・・・恋人だったり、片思いの相手だったり、それから・・・。大切な人を想う気持ちを、夕陽の情景にのせて歌っていく。今、私の思っている夕陽のことを彼方も考えている? これからも、ずっと一緒に夕陽を見られるのかな?それは考えても分からない。けれど、今一瞬の自分を強く生きよう!きっと叶わない夢なんてないんだから・・・(以上、主観的な解釈)。この曲は、最近心を揺らされた数少ない歌です。聞く人の状況や経験によって、いろいろな情景が浮かぶと思います。「私」は、女性にも男性にもなるでしょう。また、「大切な人」も、人それぞれだと思います。
第4シリーズ「スクランブル 」(唄:後藤真希、詩・曲:つんく)
 人それぞれの想いをのせる「第3シリーズ」とは正反対の、明快な詩と曲による元気な曲。今、私は渋谷のスクランブル交差点で1人で信号待ち(周りは人だらけだけど)。何でかというと、親友に彼氏ができたんで急に土日がヒマになってしまって・・・。でも結局いつものところに来ちゃった。あーーーー!私も大恋愛したいよーーーーー!!!となりの娘とか、あそこの娘も1人みたいだけど、同じこと考えてるのかなあ?彼氏とだったら、普通のAランチでも、すっごく美味しいんだろーなー。でも、もしかしたら、交差点の向う側の人ごみに運命の人がいるかもしれないし。そう思ってたら、ちょっとドキドキしてきた!あ、信号が青に変わった。私も皆も、一斉に歩き出す・・・。こういう歌です。ご存知の方も多いでしょう。他の解釈はありません。明快です。主人公の設定は女子高生だと思いますが、人間は老若男女問わず、こんな気持ちがあるかもしれません。もちろん、配偶者と大恋愛中の人も含めて、です。

第5シリーズ: 「作品否定論」による実験、突然の第2弾
 
予定の4シリーズが終わり、クロッキー会場の後片付けをしながら、上記「作品否定論」の話などを主催者としていた(脳を空白にすることから、「空白シリーズ」という言葉が出来つつあった)。片付けが終わったが、まだ40分弱の時間が残っている。「空白シリーズを1分ポーズでやりませんか?」突然の主催者の言葉に、片付けの済んだ美術室は、急遽クロッキー会場に戻った。テーブルの上で紙を抱える描き手さん。何もない床に転がるモデル。その中で、どちらもクロッキーモードは全開。身体の部位から全身にパーツを拡げるモデル。足・脚・腕・尻・背中・首・頭部・・・。途中で作為が脳をよぎったり、また砂漠に放置したり。繰り返し繰り返し。そして、描きまくる描き手さん。音と作品が積み重なってゆく。やがて、時間の概念は両者の意識から薄れていく。我に返ると28の作品ができあがっていた。

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