クロッキーF美術館コレクション vol.2005 j 1

20 picters
A3 (420mm x298mm, thin paper)
sumi

<画 材> 墨汁、A3コピー用紙
<時 間> 2〜5分固定
<モデル> あやこ

note
1 最近勉強している水墨画の技法を試みた。すると、できたところで誰かの物真似になること、すでに確立された技法をマスターしてもその枠内の作品しか出来上がらないことに気づいた。ほとんど丸めて捨てた。結果が決まっているゴールに向かって努力するなんて何にも面白くない。ゴールを狩野派とし、自分の筆でささと描ければ素晴らしいけれど、その引き換えにたくさんのことを犠牲にしなければならない。結論として、自分には水墨画はできない。技法をマスターして過去の偉大な遺産に近付くこと、されらに、それを突き破ることはできない。

2 水墨画から受け継ぐべきものは技法ではなく、その精神。例えば、落款は科学的精神と真っ向から反対するけれど、作品を独立した生き物として認め、自らの限界を記す潔さは気持ち良い。また、余韻を残し、バランスによって抽象的筆致や余白に生命を吹き込む姿勢は素晴らしい。さらに、第3者に画賛させるだけの余白を残す不完全さに驚くしかない。この境地に至るには、まだまだ修行しなければならないと思う。(落款を押すことも過去の技法であり、自分で彫って押しても無意味だ)

3 紙を適当な大きさに千切り、丸めた先端に墨をつけて描く。ただし、3分経過すると紙が湿りコントロールが効かなくなる。コントロールできないとは、自分の手の感触の通りに画面に墨が定着しないという意味である。結果として、大量のゴミが発生するけれど、失敗した紙を使えば再利用になる。今回は上手くできなかったけれど、楽しんだ。

4 次回はまた違う筆を用意してみる。筆とは自分の指や手の延長線上にあるもので、自分の一部と考えて良い。その道具が自分であり、道具を使いこなそうとすることが楽しみの1つであり、飽くことのないチャレンジャーであり、結果として「洗練されていない」ことになるけれど、それで良いんじゃないかな。自分の求めているものの1つに「美」があることは間違いないけれど、それは「洗練された美」ではないことは確かだ。

5 洗練されているとは何だろう。シンプル? 単純化された形、色、構図だとすれば、・・・ 偶然は必要無いのだろうか。それならデジタルであっても人は心を動かされるのだろうか。

6 本物と偽物の区別が無意味であることは1960年代のアメリカで実験・検証され、自分もこのバーチャル美術館を独立した美術館として尊重している。1点しかない実物は希少価値があるけれど、誰でも複製しようと思えばできるこの美術館も本物だ。これが偽者だというなら全て偽者になる。あー、どうでも良い話をしている。モデルと自分を失っている自分がいる。頭を冷やそう。

8 窓外にハナミズキの木がある。2つ前の季節に花(白〜桃色)を咲かせ、1つ前の季節に暑さを堪え、今は小さな赤い味をつけている。次の季節は全ての葉を落としてじっと寒さを耐えるのだろう。ハナミズキは自分より幼いけれど、同じように歳を重ね、きっと自分より長く生きると思う。道路の拡張などによって移植できないようなほど成長するだろう。

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