クロッキーF美術館コレクション vol.2006 b 2

collection of member

15 picters
A2 (626mm x440mm, thin paper)
sumi

<画 材> 墨汁、A2上質紙
<時 間> 3分固定
<モデル> K 1

note
1 土曜の午後に開催したので、クロッキーの後に相互合評会を行い、自薦および他薦作品を掲載した。collection of member

2 私は美術上がりでないからデッサンという言葉の定義を知らないが、広辞苑(第四版)には『(フランス)単色の線や筆致によってものの形・明暗などを描いたもの。素描』とある。本来ならその語源を調べる必要があるけれど、私の経験から判断すると、写真のように、あるいは本物のように描くことをデッサンと言うようだ。しかも、デッサンは絵画の基本で、それができない人は画家として評価をされにくい現状が日本社会にあるように感じる。しかしだ。私は写真のように描くことに興味はないし、本物のモデルのように描きたくない。なぜなら、写真のように描くなら写真に勝てるわけがないし、本物のモデルのように描くなら生きているモデルに勝てるわけがない。そもそも勝負事は嫌いだ。また、写真のようにとか本物のようにという『ように』にある『似せる』という意味から判断すると、デッサンの目標が『誰もが納得する優れた偽物づくり』になってしまう。どうやら、デッサンとは入試試験のため、あるいは美術予備校の評価作り、作品を売買するための基準として、ここ100年以内のうちに最近急速に意味が変形された可能性もある。本来の人間がもっている気持ち、対象を正確に見たい、描きたいという欲求とはかけ離れている。いずれにしても、私自身がデッサンをいう言葉が嫌いであること、現代の多くの芸術関係者がデッサンにこだわっていることは間違いない。

3 私は偽物に興味がなく(本物にも興味はないけれど)、ただ1点、魅力あるもの描き、表現することに興味がある。そのための手段が、一般的にクロッキーと言われるだけのことだ。したがって、「デッサンをやったことがありますか?」という質問には、戸惑ったり、質問者の意図を詮索してしまう。少なくとも、(言いたくないけれど、、、)私は魅力的な写真を撮る技術を持っているし、生きた魅力ある人間だと思っている(ああ、言ってしまった)。それから、こんな想像をしてみはどうだろう。最近のオートカメラで適当にシャッターを押し、それを等身大に引き伸ばして展示する。それが凄い迫力と存在感を放つことは想像に易い。これは、勇気と金があれば誰にでもできる。そういう時代に生きていることも忘れてはいけない。そして次に想像することは、写真の隣に自分の作品を置くこと。私は置きたくないけれど、もし置いたとしても大丈夫。本物のモデルの隣に置いたとしても問題ない。全てが独立したものとして個性を放っているはずだ。そして、最後にデッサンにこだわる人々にも、自分の作品を写真やモデルの隣に置いてもらいたい。何を感じ、何と何について会話するのか、その目的は何なのか、私が意見を述べたと同じよう教えて欲しい。

4 クロッキーを発表するにあたっては、クロッキーしか関係なく、それを楽しんでもらえなければ失格だ。ここに展示した作品以外になにもない。また、以前述べたかも知れないが、紙に描かれたクロッキーと、このバーチャルクロッキーはどちらも本物であって独立している。そして、もし、あなたにどちらか一方に興味を持って頂けるなら、それはとても光栄なことです。嬉しく思い、感謝します。

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5 私は見て感じたことを正確に描くこと、自分の感じるままに筆を動かすこと、画面の命ずるままにさまざまな物質の痕跡を残すことしかできない。

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