クロッキーF美術館コレクション vol.2009 Oct 10

19 pictures
A3 (420 x 297, thin paper)

画 材: 鉛筆、A3上質紙
時 間: 10,8,8,6分(男)10,8,8,6分(女)5,5,5分(男)5,5,5分(女)10,10,8,8分(ダブル)
モデル: キャメロン、Masaya

note
 ナゴヤ路樹絵(第4回)で描かせて頂いた。

 若干遅刻してしまったが、良いペースで描きはじめることができた。男性モデルMasayaは初めてだったが、彼の身体はとても描きやすかった。自分のものと近いからだろう。表現内容は静謐で、これも私の趣味に合っていた。キャメロンは2回目だったが、前回と同じような風を感じた。そては揺れ動くものでありながら、非常に強い線となった。

 さて、今回は休憩時間に描き手のクロッキーを床に並べ、渡邊先生からご講評を頂いた。並べる時、写実を目ざしている人とそれ以外を目ざしている人に分けるように指示された。私は自分の作品を写実だと思っているので、写実の方へ置きたかったが、ほとんどの人が写実の方へ並べるので場所がなくなってしまった。結果として、私の作品へのご講評は最後に頂いたが、僕はやっぱり写実だと思っているし、モデルを観ている時間が一番長いのは僕だろう。画面を見ている時間は全体の10%ぐらいだと思う。

 そもそも『写実』とは何か。本物そっくりに描くこととするなら、僕の行為は写実ではない。なぜなら、僕は『そっくり物』や『似せもの』には興味がなく、本物を描こうとしているからだ。僕はそこにあるもの、そこに存在しているものを探究し、それを描きたい。

 次に、写実を『現実を写すこと』と定義するなら、僕の姿勢は写実だ。現実とはモデルと僕が存在することだ。したがって、作品はある時間のある場所に、ある関係で存在したモデルと作家の生きた証に過ぎない。その表現方法は人間関係と同じように変化し、とどまることがない。このように定義すれば、作品の表現方法は多様で、モデルや作家とともに成長していくことが分かるだろう。上手いとか下手とかで評価されるものではない。

 以上のことだけでも、作品を『写実か否か』で分類することは意味さが分かるだろう。渡邊先生も「それは哲学的なことになり難しい」とおっしゃられていた。それにも関わらず、僕がおどろいたのは、僕の作品を『写実』としない人があまりに多いことだ。僕にとっては前述したように完全なる写実を目ざした行為であり、空想や妄想とは無縁の行為だ。そこに存在しているもの写しているに過ぎない。私の作品が写実に見えないのは、私が目に見える以外のもを描こうとしていることを知らないことが理由である。この続きは別ページ『写実は進化する』で考察する。

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