note
1枚目は筋肉のウォーミングアップで、いろいろな描き方をしました。手元、すなわち画面を確認しなが描きました。それはその後に影響を与えました。2枚目は鉛筆の芯、3枚目は2Bを使いました。4枚目は色鉛筆が入っていますが、これは意識していなかったものです。
今日は午前中だったからでしょう。1時間連続して描いてから、比較的長い休息をとって30分ほど描いて終了しました。体力があるのは良いことです。また、クロッキー中、あまり難しいことを考えずに手を動かしていました。
クロッキー前のtalk
演劇界の歴史を振り返ると、旧ロシアにおける演劇は人々を教育するためのもので、演劇に観客は存在していませんでした。近代になると、観客を意識するようになり、観客がどのように感じても良いという考えが出てきます。現代は演者と観客を対等に扱おう、としているそうです。これらの過程で多様な実験的方法がありました。ハプニング的に観客に入り込む『客いじり』や日常風景を淡々と演じるステージです。
ここで、少し昔に流行った『客いじり』を考察してみましょう。観客の中にはいじられることを期待している人がいます。何度か同じ作家の作品を鑑賞している人は、劇場に足を運ぶ前から「今日はどんないりじがあるのかな」と期待しています。初めて舞台を観る人の中にも、すぐに『いじり』があることを理解し、積極的に参加しようとする人がいるしょう。このように考えると、いじりは対等なものの1つである、と考えられます。同様に、作者が一方的の押し付けようとした旧ロシアの演劇も、観客の意識によって対等以上のものに変換することができます。例えば、「教育上ふさわしくないものをチェックする」という鑑賞の仕方があるわけです。
次に、演劇とクラシック音楽のステージを比較します。クラシック音楽で演奏される楽譜は何100年も変わりません。しかし、よく音楽を知っている鑑賞者は、指揮者や楽団による違いを聴きわけるだけでなく、地域や時代による解釈の変化を楽しむことができます。鑑賞者の質が非常に高いといえるでしょう。ステージに足を運んだ鑑賞者は、その日のステージのサプライズを楽しみにしています。これは大昔の作曲家と現代の演奏者および鑑賞者のコラボレーションです。
すぐれた脚本は、すぐれた古典楽曲の譜面と同じように時空を越えた人々を繋ぐ道具として、永遠に存在できるはずです。
クロッキーFには脚本がありません。脚本がないことは1つの独自性ですから、それは重要なことです。しかし、脚本や譜面に相当するようなものを創る必要があると感じています。