クロッキー F 美術館

アートって何!

アートという単語について考える
 ここでアートという単語について考える目的は、一般社会におけるクロッキーFの位置づけを行い、今後の活動を展望するためである。それから、初めに断っておくが、私は言葉を重要視していない。1番大切なものは私の作品であり、それと等しく大切なのは鑑賞者である『あなた』だ。単語や文章は、私の作品をより深く楽しむための道具にすぎない。

1 アートの語源
 英単語『アート』の語源となるギリシャ語『テクネー』の意味は、技術。実際、1900年頃までは『アート=技術』という意味で使われていた。古代エジプト人の天文学にもとづく優れた農耕技術は、人々に食料を提供する最高のアートの1つだったし、レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロの人体解剖や医学に関する見識や技術もアートだった。

2 1900年以降に変質したアート
 1900年代になるとアートの意味が変質した。日本語で説明する場合は、全く違う2つになる。1つはこれまでの技術の延長線上にある『芸術』や『美術』、もう1つは『技術を必要としない雑多な活動の集合』である。前者は古典的な『アート』と等しいが、後者は適切な日本語訳がない。それもそのはず、専門的な技術を持たない雑多な活動の集合体を1つにまとめことは不可能だからである。

 次に、古典的な技術を継承する『芸術』と『美術』について考察する。

3 芸術と美術の共通点
 日本語『芸術』の直訳は、『芸をするための術』。それは『誰かを喜ばせるための芸をするための技術』である。同じように、『美術』は『美を表現する技術』。したがって、それらの共通点は『優れた技術』であり、良く訓練された職人的な技は、必然的に『芸術=美術』となる。人を美しさで喜ばせるための技術、と解釈すれば良い。

 このように考えると、芸術や美術は『創造性』とは関係ない。もちろん、作家は自分の個性を与えたりオリジナリティーを大切にしたりするが、それは、長い歴史の中で見れば大きな問題ではない。ごく自然に、必然的に付加されたものである。あるいは、作家が活動した社会環境によって自然に付加されるものである。しがてって、これまでと同じことを繰り返すだけの技術を持つ人、20世紀以前の人物デッサンをする人を『芸術家』『美術家』というのは正解である。

3-(1) 芸術としてのアート
 アートを芸術と訳した場合、さまざまな表現活動が考えられる。思いつくままに羅列するだけでも、以下のようになる。それは伝統ある活動であり、私は最大の尊敬を払うべき活動であると信じている。
(1) 絵画、書、版画、写真
(2) 彫刻、陶芸、仏像、庭、いけばな
(3) 小説、詩歌、随筆
(4) 音楽、ダンス、演劇、オペラ
(5) ファッション

3-(2) 美術としてのアート
 アートを美術を訳した場合、美しさの追求が第一目的となるが、上記(1)〜(5)のいずれの活動も『美』をキーワードとして活動している。したがって、日本における『芸術』と『美術』の意味は大差なく、同じ言葉として使うことができる。余談であるが、私は『美しい人生』が最高の美術作品だと考え、それを目ざして生きている。

3-(3) クロッキーFは美を追求する
 私は美しいものが好きだ。だから、美しいものを追求したり、自分で美しいものを作りたいと願っている。その点において、私は美術家である。しかし、私は自分を美術家というより、教育者、あるいは、新しい活動を創造するクリエイターであると考えている。このHP『クロッキー美術館』は、美術の館であり、常に新しい美を追求している。

3-(4) 美の定義
 クロッキーFの活動を完全に定義することは不可能であるが、キーワードは『美』である。もちろん、『美』の基準は人によって違うし、時代によって変化するから、一筋縄ではいかない。私は新しい美を作ろうとしているが、それは私を取り巻く環境や社会と同じように休むことなく動いている。

 次に、第2のアートの意味を考察する。

4 雑多な活動の寄せ集めを意味するアート(いわゆる現代アート)
 1900年代になると、アート本来の意味『技術(芸術、美術)』が変質し、現代アートと呼ばれるものが誕生した。2009年現在、「私はアーティストだ。これはアートだ」と叫ぶだけで、アーティストやアートとなってしまう事態(時代)になってしまった。こうした状況になった原因の1つとして、一切の作品を作らない『コンセプチャル・アート』がある。

4-(1) コンセプチャル・アート
 純粋なコンセプチャル・アート作家が作るものは、企画書(コンセプト)だけである。具体的な形や状態をもつ作品は関係ない。作品は、作家以外の他人が作っても良く、作るための技術は問題にされていない。したがって、作品には美しさも創造性も保証されない。私は、このコンセプチャル・アートをアートに分類してはいけないと断言する。これはアートではない。

4-(2) 現在のアートの種類
 1900年以降のアートの種類は、アーティストの数に等しいと言える。キュビズム、シュルレアリスム、ダダ、ネオダダ、パフォーマンスアートなどに分類することもできるが、詳細に調べるとやはり個別な活動として区別しなければいけない。しかも、1人の作家が生涯のうちに何度も活動方針を変えることもある。したがって、全種類を記すことはできないし、分類しようとすること行為も愚かだ。あえて種類数だけを述べるなら、数千〜数万種類だろうか。

4-(3) 私はアーティストではない
 したがって、私はアーティストではない。現代アーティストとして分類されるのはご免だ。それなら、「私は私だであり、アーティストとして分類されるものではない」と叫びたい。一般社会をみると、このように自分を自分として叫ぶ人の数が多くなってきた。

 また、私は複数の分野でいくつかの技術(アート)を追求しているが、今はアーティスト(技術者)レベルには達していない。

5 アートと生物(物質)との比較
 アートという活動の変遷は、生物進化と比較できる。通常はゆっくりと変化あるいは進化(退化を含む)するが、あるとき劇的な変化あるいは変異をきたす。それが1900年から始まった『現代アート』であり、5憶年前の『生物爆発』である。

 生物について劇的な変化や爆発的な発生について振り返ると、そのほとんどは『個のレベル』の突然変異として消えるさる、として考えても良い。そうした歴史では、弱肉強食世界の誕生、目の発生、地球環境の変化、陸上への進出など、いくつかの大きなポイントがあった。私たちの宇宙も同じように進化してきたが、ある臨界点に達すると、劇的な変化が起こる。ただし、それはたった1つの方向性を持っているように見えるので、1900年以降の『アート・バン(芸術の爆発)』とは異なる。

6 まとめ
 英単語『アート』と日本語『芸術』『美術』は区別して使う。アートは雑多な活動を包括する単語であり、芸術は美術は人類が積み重ねてきた『技術』を持った活動に使うべき言葉である。

2009年12月15日公開

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