クロッキー F 美術館

クロッキーが作品になる時
2003年1月12日(日)

 作品とは何か。

 ある平面が作品として成立する明確な基準があります。これは私の判断基準ですが、クロッキーをしているときからアトリエに持ち帰り、作品として保管するまでの課程を紹介しましょう。

 クロッキーをしているとき、画面とモデルと比べます。1本の線を描いただけでモデル以上の魅力を表現できる、幸運な時もあります。そうでない時は、自分が感じたことを表現できるまで描き込み、格闘します。1本の線で生き返ることもあるし、1本の線で死んでしまうこともあります。

 それができると次の作業に移りますが、この作業は何をしているのか分かりません。魅力を引き立てるためなのか、他の発見を描いているのか、とにかく何をしているか分かりません。今の自分では分からないことをしています。もう少し時間が立てば理解し、言葉として表現できると思います。

 クロッキーは数分間で終了することがほとんどですが、私はその限られた時間を意識して描きます。上記の手順で描くこともあるし、逆に、最後の数秒間で1番描きたいことを描くこともあります。手順なんて考えないこともあります(ほどんど、そうだったりして)。この限られらた作業時間こそ、他の絵画とクロッキーを隔絶するものです。参考:音楽は限られた時間ではなく、時間の中に存在している。

 描き終えた時、モデルの方が魅力的なら私の描いたものは作品ではありません。破り捨てます。私がモデルから感じたことを表現できた上で、さらに、実際のモデルより魅力的でなければ作品ではありません。もし、自分で判断できない時は、そのまま持ち帰ります。アトリエで冷静に判断しますが、それでも分からない時もあります。多くの場合、それは思い込みや勘違いによる愚作であることが多いのですが、とりあえず作品として保管しています。

 ここで写真の話をしましょう。私は写真も撮りますが、最終的な作品としての判断基準は『実物以上』です。とくに、自然の風景を見て感動した時、現場では手当りしだいにシャッターを押しますが、現場で感じた感動以上を画面に定着できなければ作品ではありません。ほとんど捨ててしまいます。

 ですから、実際のモデルや自然から深い感動を受けることがなくても、大変魅力的な作品を生み出すことができます。作品は、ある作家が『無』から魅力ある美を『作り』出したものです。創作物です。

 最後に、美術館での鑑賞方法を紹介します。「何が良くて悪いのか分からない。」と嘆く人が多いのですが、次の方法を実践すれば魅力的な作品であるか一瞬にして判ります。それは、作品と鑑賞者を比較することです。壁にかかっている絵画や置かれている彫刻と、その作品の前にいる鑑賞者を比べて下さい。生きている人間はとても魅力的なので、愚作は魅力を失います。美術館に展示された愚作の前で、疲労困ぱい「何が良いのかさっぱりわからん」と口を開けて考えている人を鑑賞しましょう。その放心した素晴らしい表情、『空(くう)』の世界を堪能して下さい。

 もしも十分な鑑賞者がいないなら、高価なチケットでも数分でさようならしましょう。綺麗さっぱりあきらめて、喫茶店に行きます。行き交う人々を眺められる窓ぎわに座り、落ち着いた雰囲気で自分と人々を重ね合あわせください。自分がいかに魅力的であるか、一瞬にして判ります。あなたの芸術的感覚が磨かれます。狭い美術館で魅力ないものに魅力をみつける努力をしてはいけません。美と真実を見極める力が衰えます。それらはとても繊細な部分で生きています。

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