クロッキー F 美術館

第7章 photograph
僕は写真が好きだ
      ―動画と静止画を比較して―

1 カメラ作品なら、動画より写真!
 『動画』と『静止画』のどちらかを選べ、と言われたら、僕は迷わず『静止画』を選びます。静止画は『写真』と『絵画』の2つに大別できますが、僕は両方とも好きです。さて、このページではそれらの違いはさておき、カメラで撮影した『写真』について話します。それから、初めに断っておきますが、僕はビデオや映画やテレビなどの動画も好きです。例えば、テレビをつけると番組だけでなくコマーシャルまで楽しく見てしまうし、映画などは途中でやめることができずに最後まで見てしまい、いつも大量の時間を失います。テレビに向って叫ぶことしばしばです。

右図:写真展の飾りつけの合間に
2008年11月23日、名古屋市北文化小劇場にて

2 鑑賞するとき、時間を無駄にしない
 写真展の見学では、初めにぐるりと会場を見渡します。およその内容を数秒程度でチェックし、そのまま引き返すこともあります。写真展はわずかな時間で大量の作品をチェックできるから、時間の無駄がないのです。会場内を歩き始めたら、面白そうな作品はじっくり時間をかけ、そうでない作品は流していく。写真展は、僕が主導権を握って見るか見ないか決められるので、時間を有効に使えるのです。高い入場料を払ってすぐに出てきてしまうこともあるけれど、時間は捨てずに使うことができます。しかし、動画は違います。短いビデオクリップを確認するだけで10秒以上かかります。能動的になろうとすると、とても疲れます。

3 緊迫した画面を堪能する
 写真はそこにじっとしているので、画面の隅から隅まで細部を見ることができます。ピントの状態や画面の粒子など、自分の肉眼の限界まで観察できます。それに対して、動画は一瞬のうちに過ぎ去ってしまうから、見落としてしまう情報がたくさんあります。何度か繰り返して見ることで新発見する楽しみはありますが、僕はやっぱり画面に近づいたり離れたりしながら飽きるまで見つめていたいのです。そして、後ろ髪を引かれながら立ち去らなければならない写真(絵画)と出会いたい、と願っています。

4 写真を使って回想する
 1枚の写真を目の前にして『自分の内にいるもう1人の自分』と出会う喜びは、写真特有のものです。僕は1人なのに、複数の自分と一緒に鑑賞したり対話したりする感覚です。この体験は、読みかけの本を閉じて思索する読書家の楽しみに近いと思います。とくに質が高い1枚の写真は、いつまでも私に語りかけてくれるから、実際に体験したことがない夢の出来事や遠い昔に忘れてしまった記憶までも呼び起こしてくれます。それは幻覚に近い、悲しく辛く甘い妄想と現実が交錯する時間でもあります。

5 静止画は哲学の世界を開く
 その一方、静止画は僕の暴走を防いでくれます。なぜなら、目の前の画像は、僕の妄想で歪められないからです。写真はいつまでのそこにあり、万人に対して等しく1枚の写真として展示されているものです。自分がおかしくなり始めた時、何度でも目の前にある写真を見直すことができます。このような静止画に対して、動画は私とは無関係に流れ過ぎます。鑑賞後に深い思索を呼び起こすことは多々ありますが、それは動画が残した心の傷のようなもので、すでに具体的な映像(音)は失われています。再検証するための材料は、僕の心の中だけにしかないのです。

6 切り撮られた時間を見つめたい
 僕は「瞬間と永遠は区別できない」と直感しています。写真は一瞬だけれど、その中に永遠を宿しています。僕が1枚の写真の中に永遠を感じる時、自分の感性が研ぎすまされ、目の前の写真と完全に隔絶した時空間に立っていることを感じます。このような写真に対して、映画はその中に自分が入り込み、自分を失って一喜一憂することになります。観賞後は「よかったー」と感嘆の声を漏らすのですが、取り返せない時間が一方的に過ぎ去った虚しさを感じることも事実です。

2010年1月4日公開

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