note1
クロッキーを終えた翌日(たぶん、翌日だったと思う)、クロッキーを見直して、そのうち良くないもの数枚を捨てたと思う。写真もたくさん撮ったので、整理するのが大変で、しばらくそのままだった。
note2
15日後、クロッキーを見直した。最近、クロッキーに力が入っていなかったの、過去3回分のクロッキーがたまっていた。それらを同時に見直すと、今回のものに破壊的な美しさを感じた。その美しさは、袋小路から抜け出すための糸口を見せてくれた。完成されたものを求めてはいけない。満足を求めてはいけない。他の美術品と比較してはいけない。今回の群を見るが良い。むちゃくちゃではないか。無駄なたくさんの線がたむろしていている(でも、多くの鑑賞者は「いつも無茶苦茶だよ」といって笑うだろう)。
完成度を求めてはいけない。素人や玄人が惹かれる作品である必要は無い。未完成なものも求めてはいけない。私の存在はチャレンジする、その行為そのものに他ならない。もし、その行為がある一定期間、人類の中に歴史的に存在するのなら、それは新しい人類の活動と呼べるのかも知れないと感じている。
note3
写真とクロッキーを併置してみた。新しい試みだ。それはそれでお終いだけれど、今回の発見は、最期の方にある。そこには、複数の角度からモデルを撮影した写真があるが、それらが全く同じポーズに見えることだ。つまり、角度が変われば身体の見える部分は変わるけれど、モデルが表現していることは不変だ。当たり前だけれど、感動。それから、これは同時に、私のクロッキーに対する1つの姿勢「休息を挟んだら終わり」「集中が切れたら終わり」「意識が変化したら終わり」を如実に示している。
つづく