クロッキー F 美術館

第5章 クロッキー心理学
何を描くか

1 人物のみ

 いろいろ描きたい人はいろいろ描けば良いけれど、私は人間にしか興味がない。写真をやっているときも人間に一番興味があった。誰もが見過ごしてしまいそうな野草から富士山なのど大自然、下町や静物なども撮影したけれど、最終的には「人」だった。これまでの人生を振り返っても、高校時代は心理学の本を読みあさり、小学校の頃は友達からいじめられ、幼少の頃は過保護だったので人間関係に興味があるのは当然の結末だ。

 また、普段の生活では、「いかに手を広げないか」「いかに分野を狭くするか」に苦心するが、平面制作においては迷わなかった。躊躇することなく「人体」に限定することができる。他のモチーフを描こうと思わないし、時間的にも余裕がない。モデルの性別については、こだわっていないと思うけれど良く分からない。男性より女性の方がチャンスに恵まれている現在、ハッキリとした自分の意志は不明。また、裸体か着衣にかについては、明らかに裸体を好む。着衣の場合、モデルの発散するパワーが激減するからである。参考:2002年6月8日クロッキー作品群

2 人体を通して何を描くか
 これが1番の問題だ。スランプに陥った時は『模写』、あるいは、『デッサン』に撤すれば良いが、元気な時はたくさん思考をする。私にとって「クロッキーは哲学」なので、神の手にまかせて描いているのではない。神様がやってくるように最大限の努力をするのだけれど、それは(時間感覚を失っているのではっきりとは言えないが)数分間のことのような気がする。「その時」のために、無限の哲学と実験をくり返している。

 モデルの表面でも内面でもない。私自身の精神でもない。もっと奥深いものがあると直感している。それが何であるかは永遠の謎であり、私の追求したいことであり、何であっても構わない。毎日、実験と思考をくり返し、平面に向って良い仕事をすることが私の使命だと感じている。

3 背 景
 これにも興味がない。それは人体を包む空間、あるいは、人体が創造する時間・空間であって、それ以上でもそれ以下でもない。背景のために背景を描くことは絶対に失敗だ。主体は人体にあるのだから、それが必要とするものを描いているうちに、結果として背景が誕生する。

4 スランプを感じたら模写、あるいは、そのままに

5 紙との出会い
 大きな紙に描きたくなる時があるし、そうでなければならない時がある。逆に、小さな紙でなければならない時がときもある。そうしたことは、私が決定しているのではない。直感的な、あるいは、紙との運命的な出会いがある。そこから、私と紙との共同作業が始まる。

2002年公開

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