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コラム 2017 June 23

聖職者と言われていた頃

 私が先生になった昭和59年頃、「先生は聖職者だから」という言葉をよく耳にしました。私が特別な聖職者である、という意味ではありません。世間一般にいる先生みんなが聖職者、という意味です。今ではピンときませんが、先生=聖職者、と考えられていた時代があったのです。

 では、その時代の聖職者が何かというと、私にはよくわかりませんでした。ぼんやりと「聖なる職業の者」として理解していました。

 はっきりわかっていたことは、どれだけ頑張ってもお金がもらえない職業、ということです。お金を気にしていては悲しくなるだけなので、自己満足できるまで働くしかありませんでした。自分自身を失うまで労働するわけです。最近の言葉を使えば、ブラック企業のように働くわけです。賃金を支払う雇い主からすれば、都合の良い奴隷だったことでしょう。このように扱われてる感覚は、30年経った今でも変わりません(もちろん、今の私は体力を失ったことと引き換えに、図太さと悪慈恵を手に入れたので、、、)。

 その一方、保護者は私を守ってくれました。私が間違いを犯してもかばってくれました。
  「先生の言うと通りにしなさい!」
  我が子よりも私(先生)を尊重、信頼してくれていたのです。

 大人も子どもも失敗をするものですが、私が明らかな間違いを犯した場合でも、私をかばってくれたのです。だから、私は失敗を恐れることなく全力で仕事をすることができました。できたのだと思います。もちろん、今でも全力で仕事をしているつもりですが、、、

 それからしばらくすると、「お前は聖職者じゃなくて生殖者だろう」という言葉を耳にするようになりました。相手は冗談のつもりで言っているのでしょうが、そのような冗談が存在する時点で、聖職者は終わりです。20年程前には、職員室でも耳にするようになったので、「先生=聖職者」は完全なる終焉を迎えました。聖職者の自殺です。

 私は、先生は聖職者である(教育を自分の職業とするなら、聖なる者でなければいけない)と思っています。私が考える聖なるもの(者)とは、以下のようなものです。
(1)純粋なもの
(2)真実を希求するもの
(3)妥協を嫌うもの
(4)偽善を憎むもの
(5)豊かな心を持つもの
(6)愛そのもの
(7)欲望であり、歓びであり、悲しみであり、苦悩
(8)耐えることができるもの
(9)他人の失敗を許すもの
(10)他人の幸せを自分の幸せ、とするもの
(11)俗を愛するもの
(12)俗にまみれても塗(まみ)れないもの
 このような言葉は無限に続きますが、続けることに意味はないので止めます。

 それよりも面白いことをあなたに告白しておきましょう。

 私は先生を辞めても、聖職者という言葉が死語になっても、聖職者でいようと思います。私は先生になることを望んでいませんでしたが、今では「天命なのかな」と思っています。教育委員会とは別のところから命を受けているようなのです。

 命を解かれた時、私は死ぬのではないか、と密かに思っています。

2017年6月23日公開

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