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コラム 2010 may 15
聖職者と言われていた頃
私が教員になった頃、昭和59年頃、「先生は聖職者だから」という言葉をよく耳にしました。私が特別な聖職者である、という意味ではありません。世間一般にいる先生みんなが聖職者、という意味です。先生=聖職者、と考えられていた時代があったのです。
では、その時代の聖職者が何かというと、私にはよくわかりませんでした。ぼんやりと「聖なる職業の者」として理解していました。
はっきりわかっていたことは、どれだけ頑張ってもお金がもらえない、ということです。それは自分の命を削る労働で、お金などを気にしていては悲しくなる種類のものです。自己を失うほど働くことでしか満足できないようなものです。最近流行り言葉にブラック企業というものがありますが、あれと同じです。昔も今も同じ、というのは興味深いことです。大企業であればあるほど、末端のものは都合の良い奴隷になるのです。このように扱われてる感覚は30年経った今でも変わりません(もちろん、今の私は体力を失ったことと引き換えに、心の図太さ=鈍さを手に入れました)。
その一方、当時の一般社会は聖職者である私を守ってくれました。私が間違いを犯しても、かばってくれました。
「先生の言うと通りにしなさい!」
我が子より先生を優先したのです。大人も子どもも失敗をするものですが、私が明らかに間違いを犯した場合でも、私をかばってくれたのです。だから、私は失敗を恐れることなく全力で仕事をすることができました。できたのだと思います。もちろん、今でも全力で仕事をしているつもりですが、、、
それからしばらくすると、「お前は聖職者じゃなくて生殖者だろう」という言葉を耳にするようになりました。相手は冗談のつもりで言っているのでしょうが、そのような冗談が存在する時点で、聖職者は終わりです。20年程前には、職員室でも耳にするようになったので、「先生=聖職者」は完全なる終焉を迎えました。軽率な身内による聖職者の自殺は、高貴な聖職者も避けることができない社会常識になっていきました。
私は、先生は聖職者である(教育を自分の職業とするなら、聖なる者でなければいけない)と思います。聖なるもの(者)とは、以下のようなものです。
(1)純粋なもの
(2)真実を希求するもの
(3)妥協を嫌うもの
(4)偽善を憎むもの
(5)豊かな心を持つもの
(6)愛
(7)欲望
(8)歓び
(9)悲しみ
(10)苦悩
(11)耐えることができるもの
(12)他人の失敗を許すもの
(13)他人の幸せを自分の幸せ、とするもの
(14)俗を愛するもの
(15)俗にまみれても塗(まみ)れないもの
このような言葉はまだまだ無限に続きますが、続けることに意味はないので止めます。それよりも面白いことをあなたに告白しておきます。
私は先生を辞めても、聖職者という言葉が死語になっても、聖職者でいようと思います。
2017年6月23日公開
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