『善の研究』をですます体で読む

目 的
 初めの目的は、日本初の哲学者ともいえる西田幾多郎の代表作『善の研究』を読むことだった。しかし、難解で読めない。おそらく、多くの読者も同様だと思われるので、思いっきり平易な文章に改めようと思った。私が訳した文章によって、その後、より深くを原文を読解しようとする人の一助になれば幸いである。また、私自身にとっても、偉大な哲人の著作を分析することは、彼の思考方法を学ぶことになるのではないかと、密かな期待を持っている。

方 法
1 小坂国継が全注釈した『善の研究』を読む。
2 その内容を、さらに平易な文章にする。
(1)スムーズに理解させるため、文と順序を入れ替える。
(2)内容はもれなく記述するようにする。
(3)文体は、「です・ます体」とする。
(4)編成や章立ては「原文のまま」にするが、その内の文章は「必要に応じて改行」する。
3 制限時間は、2日間とする。

参考文献
 西田幾多郎『善の研究』 全注釈 小坂国継 株式会社講談社 2006年



 この本は、私が金沢の高校の先生だったときに書いたものです。初めは、「実在」に関することだけを発表しようとしたのですが、病気などで進みませんでした。あっと言う間に数年が経ち、自分の考えも変わり「自分が書きたいことを完成させることは簡単でない」と感じました。そして、この本はこの本として、一先ず発表することにしました。

 この本は、第2、第3編を書き上げてから、次に、第1、第4編を追加しました。第1編は、私の思想の根底となる『純粋経験』を書いたものですが、これは難解なので、後から読んだほうが良いでしょう。第2編は、私の哲学的思想を書いたもので、この本の骨子といえます。第3編は、第2編を発展させて『善』について書いたものですが、これは独立した倫理学の1つ、と考えることもできます。第4編は、私が、哲学の終結として考えている『宗教』についてまとめたものです。これは病気中に書きましした。

 この本の題名を『善の研究』としたのは、哲学の研究は、最終的には『人生の研究』だと思うからです。

 私は、この世の中の実在は、1つしかないと考えています。私は、その実在を『純粋経験』と名付けました。この考えになるまでに、まず、哲学者マッハを調べましたが、満足できませんでした。それから、「経験があるからこそ、個人がある」という考えになりました。その次に、「個人を区別するよりも、どのような経験をしたかが重要である」という考えになりましたが、これによって『独我論』より優れて考えになったと思います。その一方で、「経験は受け身ではなく、自分から行なう能動的な行為である」と考えることで、哲学者フィヒテ以降の『超越哲学』と同じような方向になりました。このようにして、第2編ができたのです。

 悪魔メフィストは「思索などをする人間は、緑の野原で枯れ草を食べるような動物だ」と笑うと思いますが、私は、哲学者ヘーゲルと同じように、禁断の実を食べた人間の1人として、苦悩の中に喜びを見つけようと思っています。

明治四十四年一月 京都にて
西田幾多郎

第1編 純粋経験
第1章 純粋経験

 「経験すること」は、「事実を、そのままに知ること」です。私は、このような経験を『純粋経験』ということにします。これは、感覚や知覚によって経験できます。何かを見たり音を聞いたりする瞬間、色や音の原因がまったく分らないときの経験です。されに、この瞬間は「自分と対象を区別できない」「主客の区別がない」状態です。もし、自分が見たり聞いたりしている、という意識が入ってしまったら、純粋ではなくなります。※純粋経験=直接経験。

 ここで、一般的な「経験」という言葉を確認しておきましょう。哲学者ベントを例にとると、彼は、ある経験から推測できる知識を『間接経験』とし、物理学や化学は『間接経験』の学問である、としました。ベントがいう経験は、1番初めは経験した人は『純粋経験』になりますが、科学的に同じ経験を試してみようとする人にとっては、『純粋経験』ではありません。それは、ただ単に「事実を、そのまま意識している」に過ぎないのです。


 純粋経験は、過去の記憶にも当てはまります。過去を思い出している場合には、現在の感情が「過去」を感じている、と考えればよいのです。この考えを応用すれば、ぼんやりとしか意識できないこと、いろいろな感情(快・不快など)、意志や欲望も純粋経験でありといえます。さらに、抽象概念も含まれます。しかし、数学者が行なうこと、例えば、いろいろな図形から三角形を取り出すとは、三角形を「取り出そう、思い出そうとしている」だけなので、経験ではありません。1種の感情である、と言えるでしょう。


 純粋経験は、単純なものから複雑なものまでいろいろな段階に分けられます。しかし、どんなに複雑であっても、その瞬間においては1つの単純な純粋経験です。過去や未来の区別がなく、一瞬のうちに、1つものとして経験されます。その時の意識は、すべて対象物に向いているので、全く自分の考えを入れる余地がありません。もちろん、この経験は後から分析することもできますが、分析した時点で純粋経験ではなくなります。純粋経験は、全て単独で、独創的なものなのです。

 さて、瞬間という時間のとらえ方は、個人によって大きく違います。例えば、偉大な音楽家の演奏は、その瞬間の音を、曲の始めから終わりの中でとらえます。野生動物の本能行動も、同じように時間の幅をもった瞬間といえるでしょう。また、純粋経験の応用としての『瞬間知覚』は、とてもたくさんの経験が結合して1つになったものです。このように、純粋経験は、一般的いう時間の長さに違いはあっても、『主客合一』という点では同じです。

 なお、心理学で使われる視覚、聴覚、空腹感覚などの『単一感覚』は、研究のために作った理想的な感覚です。


 純粋経験が「純粋」であるということは、意識がはっきりとして具体的で、意識が揺らいでいない状態です。私が使う「意識」とは、心理学の『単一感覚を寄せ集めたもの』ではなく、『1つの体系として意識できるもの』です。

 新生児は「明暗」しか分らないので、これは完全な純粋経験の1つです。そして、成長して大人になると、複雑なものを見るようになるので、一瞬のうちに全体を見れなくなります。それでも純粋経験にするためには、自分の意識が自動的に動き、それにつれて目を動かしていろいろ見ている状態にすれば良いのです。この方法は、記憶や想像にも応用できます。ゲーテが夢の中で詩を作ったのは、さらに発展した純粋経験であると言えます。以上をまとめると、純粋経験は、(1)外部からの刺激による感覚、(2)自分の過去の記憶、(3)自分の想像、(4)自分の創作活動、のような段階に分けられます。

西田による刺激や対象の分類
A 知覚
:外部から来る(1)
B 表象:自分から出る(2)、(3)、(4)

 なお、(1)について補足しますと、外部の刺激は一方的に感じますが、実際は、自分が注意しなければ刺激を受け取れないので、自分の中に『無意識の統一力』が働いています。また、(2)〜(4)による純粋経験は、自分の意識外で、自然に結合して1つに統一されるときです。とくに、夢は(2)〜(4)だけの働きであることも、覚えておきましょう。

 ある経験が純粋であるかは、それが「1つに統一できるか」で判断できます。(1)〜(4)が混じり合うような場合、つまり、自分の記憶や想像が、一瞬のうちに外部の刺激と結合するなら、純粋経験です。逆に、自分の記憶や想像が、その他の意識と別の関係をもったときは、「ある意味」になった、と言えます。


 ここで、もう少し詳しく「意識の統一」について考えましょう。私が考える「意識」は、有機物のように結びついたものです。この意識は、自分の意識とは関係のないところで、秩序をもって分化したり発展したりして1つの体系を作ります。このように統一する働きは、感情や時間の流れに沿って純粋経験となります。しかし、感情の流れが妨げられた場合は、必要ない記憶や想像が出てくるので、純粋経験ではなくなります。

 また、意識は衝動的なものです。

 もし、主意説「意識の根本は、意志である」が正しいなら、「意識が自然に統一されるという性質は、意志の目的である」ということになります。

純粋経験は、意志の欲求と現実が一致しているだけでなく、意志はとても自由で、活発な状態です。

ここで時間切れとなりました。


私の雑感
 彼の基盤となる発想は素晴らしいが、文章は推敲されていない。不用意に使った1つの単語の問題点を、すぐ次の文で解決しようとするので、1文ごとに内容がぐらぐらする。もちろん、彼の基本的な考えはしっかりしているので、全体としては問題を生じないが、読者を考えた執筆家としてはいただけない。書き散らかした文章を、適当に配置しただけのように感じる。私は教育者なので、本を書くなら、相手のためにもっと時間をかけて文章を作らなければいけないと思う。もう少し読者のために努力しなければ、自己満足の域を出ない。

 哲学という活動について考えてみた。偉大な哲学者は、自分の考えに名前をつけ、自分の主観を明確に定義する。そして、ある主観と別の主観をきちんと結びける。主観の数が多くなるほど、それらの関係が複雑になり、緊密になるから、他人が入り込む余地がなくなり、「偉大な思想体系」となる。さて、私は、この活動に対して「客観」や「科学」という言葉は使わなかった。すべてが主観による非科学的な活動だ、と感じるからだ。もちろん、この文章の冒頭に述べたように、偉大な哲学者は「客観」や「主観」を自分の好きなように定義することができる。なお、私は「主観や客観」「科学と非科学」について興味を持っているが、どちらが良い悪いかなどと論述するほど愚かではない。

 純粋経験の全容は、実動12時間で理解できた。私にとってはそれほど難解なものではなかった。しかし、彼の文章は難解で、2日間の作業で、ここまでしかできなかっったことは残念だ。私が苦しんだのは、難解な文章だけだったように感じる。彼が優れた執筆家なら、12時間も費やせば、もっと深いレベルまで楽しむことができたのではないかと思う。純粋経験だけにとどまったのは、非常に残念だが、私が持っている時間は限られているので、これで終了とする。

 西田幾多郎の編成、章立て、および、段落分けは「みごと」である。

 全注釈をつけた小坂国継の文章は、とても分りやすく、わくわくするものだった。

福地孝宏
2007 10 7




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