このページは、ロンドン旅行記 2001春 です

スケッチブックから
2001年4月2日(月)

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◎ 以下のメモは、いつ書いたものかわからなくなったので、
ここに置きます。

 1人の作家は、本当にたくさんの仕事をしているなあと思う。今、自分のやっている仕事なんて、本当に『屁』にもならん。もっと、意欲的にたくさんの仕事をしなければいかん!!

 英語の解説が読めないから、かえって作品に集中することができる。これは大変幸せなことだ。

 自分以上の絵は描けない。すべての絵画は自画像でしかあり得ないことは分かっていたけど、私は裸で生きているから、裸体を描くのだろう。着衣に興味があるかどうかではなくて、私は裸で生きていることに興味があるのだ。何を隠すでもなく、自分をさらけ出していることに興味がある。また、もし、自然に興味があるなら、、、今の自分は自分だけにしか関心がないから、当然、裸婦1人で十分なのだ。そこに背景だとか、もう1人の人物、静物、花、風景、その他一切の付着物に興味・関心がない以上、描くことはできない。以前、風景、フランス人形、履きふるした靴などを描いていたが、もはや興味を失ってしまった。今は自分そのもののに興味がある。

 ピカソの場合、彼の周りにはいろいろなものがあって、オブジェ、女、子供、動物、そうしたものに興味があったから、否、それらがピカソ自身だから、と言ってもいいだろう。とにかく僕は、僕以外のものに関心がないことは間違いない。この路線でやるとかやらないとかじゃなくて、これしか無いのだから仕方ない。1人のモデルと通して、その環境には自分自身が投げ掛けられている。例えば、**に触ることは無い。その禁欲的な環境も、日常生活の延長線上に過ぎない。

 モデルの深いまざなしは、自分自身に他ならない。それは、彼女の瞳ではなくて私の瞳なのだ。彼女が私を追い掛けているのではなくて、私が私自身を追い掛けているのだ。もちろん、彼女も追い掛けているだろうけど、それは、あくまでも私から始まり私で終わる。

 『枇杷林檎』でも同様だった。
 子どもたちの文章を使って、私の世界を表現した。あの活動は、すべて私自身のためであるばかりでなく、私自身なのだ。/ この感想は、子どもたちに言わせれば、全く逆のことを言うだろう。「あれは、僕の私の作文だ。」それも正解。すべて自分のための活動であり、自分自身であることが分かっていれば良い。/ 幼稚な人々は、それを(明確に)意識してないか、勘違いしている。「これは、他人のためです。」と言うのは嘘だ。その活動が自分のためでなければ、その個人は存在する意味がない。他の誰かと入れ代わることができる。そんなことは、あってはならない。私たちに人間は、全て個性、自分だけの価値、生きている意味を持っている。

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