北インド・チベット仏教を訪ねる
22 DEC 1993 〜 09 JAN 1994

 初めてのインドは厳しいものだった。帰り道、ニューデリーに向かう列車の中でカメラバックが盗まれた。カメラ2台とレンズ数本、それに大切な日記がなくなった。撮影済みのスライドフィルム約40本が残されたのは不幸中の幸いだった。


(上:北インド何とか寺で記念撮影。著者は髭を生やしている)

    


日本からニューデリーに飛ぶ。
深夜1時着。
右も左も分からないままタクシーに乗る。

街中ぐるぐる走り周り、
高級ホテルのドアを叩き、
眠ていた親爺と交渉する。
「高すぎる!」

これを何回繰り返しただろう。
運ちゃんの友達は何人だろう。
インド初心者哀れなり。

午前4時
ベットにたどり着く。

===

翌朝
とにかく、情報を仕入れないと、、、
『地球の歩き方』の地図を見ながら『観光案内所』に向かう。
この青色の本は、初心者日本人の目印として世界に通用する。

政府の観光案内所は閉まっている。
その前にたむろしている怪しい奴等が腕を引っぱる。
「今日は休みだよ。」
「移転したよ。」
「私がガーバメント・オフィサーだ。」

もっとも、ソレらしい男に付いていったが、やっぱりインチキ。
彼の名刺も店の看板も嘘でした。

元の場所に戻るとシャッターが開いていた。
案内所は10時開店なのであった。
情報はなくとも、優しいお姉さんにほっとする。


(上:その辺の店で喰う。ナンとカレーとスパイシーな野菜にほっとする。)

(上:国立博物館で写す。とぼけた手が嬉しい。)



それから、バスで北上した。
  
途中で『ダライラマが来る』との情報を得、
急遽予定を変更。
とある町に滞在することにした。
名前は忘れた。


(上:ダライラマの到着)

待つこと数時間
おいおい、
どうしてベンツなんだよ。
そんな超高級車、見たことないよ。
みなさんロウソク手にして待ってるのに、、、
『籠』を信じていた私は阿呆の中のアホ


(上:お寺の僧侶と記念撮影。中央のメガネが私)


   記憶力が弱いので、嘘を書きそうだ。
   たぶん、バスで『シュリナガル』に行く。
   4、5000メートルの山を超えたと思う。
   寒くて頭が痛たい。


(上:『シュリナガル』の街で写す。軍事紛争地帯だけど人々は優しいよ。一生懸命働いている)


(上:校外の風景。子供が走ってきたけど寒くて寒くて)


そこから、飛行機でインド最北端に飛ぶ。
地名は、あの有名なあそこ。
そして、寒さと高山病で寝込む。

仕方ないので、
ヒマラヤ山脈一望の1等地から、宿を選択。
高価な薪を24時間持ってこさせた。
青色のジャンパー(左下の写真)も買った。
それを着たまま寝る。

(上:有名な寺だけど名前は、、、)

食事は厳しい。
1日3食とも同じ、ももと呼ばれる水ギョウザとスープを食べた。
それでも、ヤクの肉を喰うことは最高の贅沢である。


(上:子供達が走ってきたので止れ!と言った。)


1日、タクシーを貸し切って寺巡り。
ああ、最高だよ!
ラサ(中国のチベット自治区)とは比較にならない。
      生 活 = 宗 教
宗教が生きている。
とにかく生きている。

僧の食べ物は、ヤクの油かな?
それを溶かして飲む。
朝食はそれだけだった。
私も頂戴した。
旨かったと思う。

(右:ロウソクを作っているところ。白色の原料に赤の染料を混ぜる。それから、驚いたことに作業中の僧が『ろう』を食べた。私も食べてみたが、どうやら朝食と同じ材料だった。)


(上:朝の礼拝の後、若い僧達が笛の練習をしていた。)


(上:服を直す僧侶)


あとがき

ある若い僧に質問をした。

「もし、他国の軍隊が寺院を破壊し、君達を殺し、ダライラマを
暗殺したらどうする?」

何もしないさ。
ダライラマは生き返るからね。
何千年後か分からないけど、

「それでは、教えが跡絶えてしまうだろう。」

そうだよ。
しかし、チベット仏教は繰り返される。
それは誰も知らないけれど
完全な非暴力主義が、世界の何処かの場所で発生するんだ。

この一連の会話は、今でも私の人生観を決定づけている。優
れた精神は不滅であり、それを守るための手段は必要ないの
である。
                1998年 9月 2日 記す
                Taka


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