クロッキーF美術館コレクション vol.2009 July 20

15 pictures
A3 (420 x 297, thin paper)

画 材: 鉛筆、A3上質紙
時 間: 指定時間固定(60分)
モデル: ヴァリー

note
 今回は珍しく私が研究のためにいくつかのポーズの注文を出したが、ヴァリーは日記のようなクロッキーを望んでいた。描き始める前によく話合えばよかったが、私は自分の欲望に目が眩み、すぐに描き始めてしまった。この時点で、今回のクロッキーは『すれ違い』を表現することになった。これは私の失敗なので、モデル『ヴァリー』に謝りたい。

今回の研究テーマ
 残念ながら、今回のテーマは一般に説明できるレベルに達していない。しかし、私と同じような感性と経験を持っている人には、以下の3つの作品を並べるだけで、非言語レベルで理解できるだろう。それは、感性に任せて楽しむ活動(鑑賞)ではなく、分析的に現場を感じる試み(理解)である。


図1:K子
2009 july 15-2


図2:みほ
2009 july 19


図3:ヴァリー
2009 july 20

 図1〜図3は、両腕を使って腰を逆さに持ち上げたポーズであるが、それぞれモデルの動機は違う。図1のモデルK子は『自らの強い意志』、図2のモデルみほは『私の話を受けた自発的な意志』、図3のモデルヴァリーは『私の依頼を受諾すること』によってポーズをした。もし、私の表現(作品としてのクロッキー)が的確なら、それらを一般の鑑賞者にわかってもらえたことだろう。しかし、現在の私の表現力は未熟だ。このような見慣れないポーズを描くのに精一杯で、現場の臨場感や感情を描けない。誰でも分かることは、図1から図3へと、技術が向上していることだろう。(もちろん、私よりも優れた感性の持ち主は、実際の現場に渦巻く複雑で多様な感情(情念、エネルギー)を感じ取っていることだろう)

 現在の私の表現力レベルは低く、『クロッキーの現場』と『作品としてのクロッキー』を直結できない。練習、基礎訓練しなければいけないことが山積している。私にできることは、今の現実から目を背けず、できることを1つずつ挑戦ていくことだ。したがって、上の図1〜図3を読み取れない(感じられない)のは、読者の責任ではない。

 次の図4〜図6は、上の図1〜図3と同じモデル(クロッキーの場)を並べたものであるが、解説はしない。


図4:K子
2009 july 15-2


図5:みほ
2009 july 19


図6:ヴァリー
2009 july 20

 クロッキーの現場は、高いエネルギーをもった人間と人間が出会う場所だ。モデルと作家は、互いのエネルギーを響かせあい、1つのハーモニーを作る。その掴みどろこがない、美しい音楽のような全身全霊を使ったハーモニーを画面に定着させるのが作家の仕事だ。作品としてのクロッキーは、モデルと作家の共同作業の結晶に過ぎない。

 したがって、クロッキーの現場でモデルと作家がお互いの強い意志や信念に基づき、どうしても譲れないと主張するなら、作品は歪む。2者の方向性が一致していないのにも関わらず、作家が描くというなら、それはすれ違っていても可能な問題(例えば技術的なこと)の追求になるだろう。モデルが一方的にポーズする場合も同じだ。

 ここで私が述べたことは、多くの芸術家とモデルが体験していることだが、私は作家として自分の作品と言葉を使って、この世界を一般の人々に伝えたいと切望している。私は『100の実践から1つの理論が生まれる』と信じている実践家だから、描くことを優先する。さらに、失敗した時こそ『実践家としての真価』が問われると信じているから、チャレンジし続けるしかない。私は、クロッキーの世界を作家という立場から究明したいという欲望に駆られている。そこに甘えは存在できない。

 最近の私は、たくさんクロッキーしている。それは人生最大の関心事で、私はそれに賭けていから、それと引き換えにいくつかの大切なものを失う。新しいものを作り出すためには、失うことや奪われることを怖れてはいけない。どんなに辛くて悲しくても、1番大切なもののために努力して継続すること、耐え忍び我慢することを忘れてはいけない。

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