note== 無心クロッキー
無心で描こうとするのではなく、無心でなければならない時があります。そんな時、かつては正確にデッサンするようにしていましたが、今日は無心で描いていたような気がします。無心は求めれば求めるほど遠のいていく種類のものですが、無心はある種の諦めから自然発生します。
無心になること、欲望レベルをゼロするは難しい行為です。例えば、描き始めに「がんばって良いものを描こう」という欲望があったとします。それをゼロにするのは難しいでしょう。ゼロになっても描く行為を止めることはクロッキーを諦めることになるわけですから。
無心になる方法の1つは、現実を受け入れることです。自分以外のもの、例えばモデルをよく観て状況判断をします。判断するのは自分自身ですが、自分に囚われているうちは無心になれません。
ただ鉛筆を動かす行為だけになっても、それは何もしない行為とは隔絶しています。何かを生み出そうとしているからからです。それは欲望の1つですから、完全なる無心とは違うでしょう。しかし、完全なる無心の追求は死を意味します。あなたが死んだ後に手が動いている状態、それが作家としての無心の状態です。
ただ手を動かす作業は面白いものではありません。面白いとも何とも感じないでしょう。が、その状態は長続きしません。無心のうちに、ごく自然に面白いものを求めていくようになります。それが真の作家の創作行為に1つのかたちでしょう。
欲望レベルの変化
大
描く気いっぱい |
(低下)→ |
ゼロ
無心 |
(増加?)→ |
ゼロ
欲望を感じない状態。自分じゃないヒトが自分に代って描いている感覚。それを目撃している自分やそれをコントロールしている自分がいる。 |
上の流れ図を見ると、欲望がゼロに近づくところは比較的簡単に想像できるでしょう。無心に近づくだけですからね。さて、ここでの問題点は2つです。1つはどこまで無心になったのか、自分で判断できない点です。これは無心の特性上しかたないでしょう。もう1つは、無心=無欲のまま変化に満ちた行為に移行していく方法です。上図では欲望レベルが(増加?)としましたが、それは何かが変質していくことです。
今日の分析はここまでにしますが、興味がある方は別ページ『hiro.F の手法2008年』をご覧ください。それは2005年から始めた墨液を使ったクロッキーで発見したものを、2007年末にまとめたものです。それから鉛筆主体となり、自分でコントロールする要素が多くなったのですが、2012年2月からビデオ撮影を始め、クロッキー中の自分を観ることができるようになりました。まだ3ヶ月で主観的なので、もう少し続けてみます。