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クロッキーF美術館コレクション vol.2012 May 4

13 croquis
(420 x 297, pencil)


→ 動画:クロッキーの描き方12may4

画 材: 鉛筆、A3上質紙
時 間: 指定時間固定
モデル: NB
撮影機材:ニコンD300、24-120(f4)
動 画:
 クロッキーの描き方12may4

note== 無心クロッキー
 無心で描こうとするのではなく、無心でなければならない時があります。そんな時、かつては正確にデッサンするようにしていましたが、今日は無心で描いていたような気がします。無心は求めれば求めるほど遠のいていく種類のものですが、無心はある種の諦めから自然発生します。

 無心になること、欲望レベルをゼロするは難しい行為です。例えば、描き始めに「がんばって良いものを描こう」という欲望があったとします。それをゼロにするのは難しいでしょう。ゼロになっても描く行為を止めることはクロッキーを諦めることになるわけですから。

 無心になる方法の1つは、現実を受け入れることです。自分以外のもの、例えばモデルをよく観て状況判断をします。判断するのは自分自身ですが、自分に囚われているうちは無心になれません。

 ただ鉛筆を動かす行為だけになっても、それは何もしない行為とは隔絶しています。何かを生み出そうとしているからからです。それは欲望の1つですから、完全なる無心とは違うでしょう。しかし、完全なる無心の追求は死を意味します。あなたが死んだ後に手が動いている状態、それが作家としての無心の状態です。

 ただ手を動かす作業は面白いものではありません。面白いとも何とも感じないでしょう。が、その状態は長続きしません。無心のうちに、ごく自然に面白いものを求めていくようになります。それが真の作家の創作行為に1つのかたちでしょう。

欲望レベルの変化


描く気いっぱい
(低下) ゼロ
無心
(増加?) ゼロ
欲望を感じない状態。自分じゃないヒトが自分に代って描いている感覚。それを目撃している自分やそれをコントロールしている自分がいる。

 上の流れ図を見ると、欲望がゼロに近づくところは比較的簡単に想像できるでしょう。無心に近づくだけですからね。さて、ここでの問題点は2つです。1つはどこまで無心になったのか、自分で判断できない点です。これは無心の特性上しかたないでしょう。もう1つは、無心=無欲のまま変化に満ちた行為に移行していく方法です。上図では欲望レベルが(増加?)としましたが、それは何かが変質していくことです。

 今日の分析はここまでにしますが、興味がある方は別ページ『hiro.F の手法2008年』をご覧ください。それは2005年から始めた墨液を使ったクロッキーで発見したものを、2007年末にまとめたものです。それから鉛筆主体となり、自分でコントロールする要素が多くなったのですが、2012年2月からビデオ撮影を始め、クロッキー中の自分を観ることができるようになりました。まだ3ヶ月で主観的なので、もう少し続けてみます。

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