クロッキー F 美術館

第4章 Fのクロッキー技法
神に描いてもらう

1 私は昔、神という言葉を使っていた
 私は昔、神が描いているような感覚を味わい、神という言葉を使っていました。それは明確に意識できる主観的な『ある状態』で、クロッキーを描いている時間だけ起こるもの、同じように繰り返されるもの、心踊る楽しいものでした。その結果としてのクロッキーは、下図のようになります。これは私だけが味わえる状態や感覚ではないと思います。他の誰かが私より適切かつ明確に述べているかも知れませんが、とりあえず私の現状レベルで紹介します。
 なお、『宗教で使われる神』に興味がある人は、このページを読んでがっかりするかも知れません。そもそも私は、一般的な宗教の神を信じていません。

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上の3点:クロッキーF美術館コレクション vol.2005 h 9noteから
 この日の私は、自分が空間を支配し、再構築している感覚を持っていました。モデルの外見が失われ、自分が持っている美意識によって画面を構成していく感覚です。ただし、描きはじめる前に、何がどうなるかは全く分かっていません。

2 神を感じる時間帯
 神が出現する時は、中盤から終盤にかけてです。神をよく感じていた2005年〜20007年は、2分を10回、または、3分を7回を1セットとして、休息を挟んで4セット行っていましたが、神は調子が良いときの第2〜第3セットの中盤によく訪れました。

3 休息を挟むと完全に消滅する
 神の来訪は単発のこともありますが、ほどんどの場合、2回か3回の連続でした。しかし、4回連続したことはなかったように思います。「もう1回お願いします」と望めば望むほど遠ざかっていきました。10分の休息を挟んだときは、完全消滅でした。どんなに強い神でも、むしろ、強ければ強いほど完全に消去されてしまうものでした。それは思い出そうとしても思い出せる性質のものではなく、完全に他とは分断された独立されたものでした。もう2度と手に入らない感覚です。とても残念ですが、自分の力ではどうにもならないことを知っていましたから、私は過ぎ去ったものを追うことはしませんでした。

4 予想外に来るときもある
 私がどんなに期待し努力しても、神は来ない時が多いのですが、予想外に来ることもありました。来るときは、その予感がありました。

5 神がいるときの感覚と現実
 神の感覚は、自分以外のものが腕の中に降りてきて、あるいは、腕の中に発生して勝手に私の腕(手)を使って描いている感覚です。その腕が線を描いている途中は、まさに赤子が産み落とされる瞬間であり、何ごとが起こるか分らない連続した(しかし一瞬といえる)時間であり、瞬まばたきは世界を見失うことを意味します。私の目前にある画面は、すべてが途中なのに、すべての途中が完成しています。ついに生まれ落ちた新生児に、「わあ」といって見とれる間もなく、その腕は、また新しい線を描きます。その行為が始まった瞬間、私は、今新たに生まれ落ちゆく赤子に驚き、それに見とれます。「何で、どうしてそうなるのか」 その時、私は客観的に見つめているもう1人の自分を明確に意識しています。私は描き手であるより、世界が創造される現場の立会人であり、極上、唯一の席で見物しているたった1人の人間なのです。このような新生児の誕生が何度も繰り返される現場の当事者になるとき、私は「神が降りてきた」と感じていました。この感覚はとても鮮明で、今でもつい数分前にあった出来事のように思い起こせます。それは完全なる主観ですが、事実なのですから、認めるより他に仕方ありません。生まれた作品はその証拠です。それは楽しいワクワクわする、心踊る感覚であり、現実です。

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上の3点:クロッキーF美術館コレクション vol.2007 april 26から
 この日のクロッキーにはnoteがありません。分るのは、左端は3分、中央は休息を挟んだ後の3分、右端は2分で描いたことです。そして、この日のクロッキーは全体を通して、同じような感覚が続いていることです。26ポーズを描き、作品として15点が残されています。

 神の感覚を明確に味わっていたのは墨を使った時期(2005年〜2007年)です。筆をにつけた墨は、1度に大きな面積を変化させてしまうだけでなく、水が紙へ浸透したり、墨の粒子が水中を自由に泳ぎまわります。私の腕(手)だけでなく、筆、紙、水、墨たちまでが、私の意志とは全く無関係に、自分の好きなように振る舞います。私はその自分勝手な動きが面白くてしかたないのです。それを見ているだけで、私は満足していました。その一方、一瞬のうちに「絶対負けないぞ!」と、墨を調節したり筆を持ち変えたりする自分がいたことも事実です。これは神をコントロールしようとする、もう1人の自分です。実は、この自分を失うと神は消滅します。逆に、降臨した神を信じることなく、自分の力で「良い作品を描こう」とした時、瞬時に天国から地獄へ。紙はまるめて捨てられます。

 事実は2つあります。1つは、私が予想外の新生児を産み落とし続ける『神の振る舞い』を楽んでいたこと。もう1つは、上のような作品が生まれたことです。ただし、前者は私個人の主観であり、後者の評価は大多数の個人の主観をまとめる必要があります。神を主観から客観へ連れ出すことは、現在の私の力では無理ですが、研究のテーマとしては十分な価値がありそうです。がんばってみます。

6 神を出現させる方法
 この感覚生み出す方法、神を降臨させる方法は、2007年12月31日リリースの『hiro.F の手法2008年お年玉』にあります。興味ある方は、是非お読み下さい。

7 神は全員が感じるか
 1人のモデルを複数で描いているとき、私が神を感じた時、他の描き手も調子が良く、「とても良かった」という感想を漏らします。神はクロッキー会場全体に舞い降りるように感じますが、感じるのは個人単位なので、全く感じない人もいます。集団心理として分析できる種類のものではないでしょう。

8 例えば、時間が延びたら
 神を感じているときに、クロッキーの時間が延長されたらどうなるか。3分だったものが4分になったら、どうなるか。実験したことはありませんが、私の予想では、神は時間を超えた瞬間に消え去ります。神は時間限定、初めに予定された時間だけ出現するように設定されているように思います。限られた時間とエネルギーの範囲内で、目まぐるしく色を変えて燃焼する金属のようなものです。

9 神が来なくなった今
 現在、私のところに神は来ません。神をぼんやり思うことはありますが、強く念じることも意識することもありません。したがって、今の私に神はいません。それでも、私は満ち足りています。私は、かつて自分の腕に降りてきた神を知っていますし、もう来なくても十分やっていける気がします。もしかしたら、私自身が神になった! のかな? 自分は自分のままであり、何の異変もありませんが、神はまったく感じません。

10 神が来ない原因
 現在の私は鉛筆を使っているので、予想外のものが一気に出現することは稀です。これが神を感じない原因の1つかも知れません。この先、鉛筆ではない画材、自分で作った画材でクロッキーする季節が訪れます。その時は、再び神を感じることでしょう。その性質は、前の神と同じだと思います。

11 神にかわる遊び
 今の私は『遊び』に夢中です。遊びは神にかわるものとして、十分な可能性を秘めています。なぜなら、神は突発的に訪れ、予想外に動き、非連続に自己完結するものでしたが、遊びはより幅広い特性を持っているからです。それらは、思いつき、偶然、非連続、飛躍、無意識、自由奔放、自分勝手、物真似、学習、インスピレーョン、想像、空想、創造として、別ページ『遊びとしてのクロッキー』で紹介しています。

2010年3月29日公開

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