このページは、学級通信2年D組『枇杷林檎びわりんご』です。 |
枇杷林檎 214号 2001年3月13日(火)
これは13日(火)に投稿されたものです。
「親バカ」転じて「叔父バカ」
私の甥に千綿ヒデノリというシンガー・ソング・ライターがいる。長女の結婚式に出席してくれた際、お礼として下の短い詩を贈った。この度、CD『正体』の1曲としてメロディーが付けられ、『1+1』というタイトルの歌になった。
『1+1』(ちなみに、私が付けたタイトルは、Love Song)
繋つないだこの手を離さないように
今夜 僕らの誓いを立てようよ
眠れぬ夜にはずっと話をしようよ
2人がいれば それ以上もそれ以下もないどんな季節が流れても
流れぬように行くんだよ
変わり続ける2人の温度を
確かめながら 認めながら
繋いだこの手を離さないように
今夜 僕らで誓いを立てようよ
たまには本気で喧嘩もしようよ
2人がいれば それ以上にそれ以下もない
大丈夫 僕が傍にいるよ※ 千綿ヒデノリ(偉功)のCD『正体』は、関東地区、九州地区では大ヒットしています。
皆さんも、ご協力下さい。
父との別れ 吉岡二三代
父のことを思うと、今でも涙がこぼれる。きまじめで融通の効かない父だった。亭主関白で母も姉も私も絶対服従といった感じでどこか恐れていた。家では無口で、笑い顔もあまり見せなかった。そんな父が60歳で定年のところをさっさと希望退職をして、小型船舶の免許を取りに行った。それから小さな伝馬船を買って、好きな釣りで毎日を過していた。それまでは父のことを疎んじていたけれど、時間に縛られずのびのびと過している父を見て、そういう生き方もいいなぁと思うようになった。自然を相手に過ごしている父の顔は健康的で本当に楽しそうで、よくしゃべりよく笑った。「魚を分けてくれと頼まれても油代の方が高くつくよ。」と声高らかに笑っていた。また、釣った魚を自分で調理して、瞬間冷凍させ、私の所へ送ってくれた。名古屋に着くころにはちょうと解凍できていて、食べごろだった。
そんな生活が10年間ほど続いたある日、「夜、寝つけない。」としきりに言うようになった。薬には頼らせたくなかったので、民間療法の本を何冊か熟読し、電話で指示した。それを父は忠実に守った。今度は心臓が悪くなってたびたび発作を起こすようになった。それには卵油が特効薬だと知っていたので、本を見ながら作った。有精卵の卵黄10個をフライパンで焼く。初めはカステラのようにふわふわしておいしそうだった。焦げてきたがまだまだ。煙はモウモウと上がり、においは鼻がへし曲がるくらいの臭さである。これは、家庭で作るものではないと思えてきた。が、もう遅し。まるで、山中で修行をしている仙人のような心境になった。やがて、真っ黒こげの下に、真っ黒な油が出てきた。これを他の容器に移し、小瓶に入れ替えて父に送った。数日たって、何度も発作を起こしたけど、卵油でおさまったと電話があった。
それから他界するまでの数カ月間の週末は、学校から直接片道320キロの道のりを一気に走って父のもとに駆けつけた。病気になるまでは、近寄り難い存在だったけれど、私が顔を出すことを誰よりも待っていてくた父を心から愛しいと思った。自分ができることは何でもやってあげたかった。もう、そのころは自分の肺だけでは呼吸が困難になっていたため大きな酸素機から管を通して酸素を吸いながらの生活にだった。それでも、私が帰郷すると、食事前には包丁を持って魚を調理してくれた。7月中旬、あと1週間で夏休みという時に訃報が入った。この時は冷静に父の死を受け入れることができた。心残りといえば、夏休みに入ったら携帯の酸素ボンベを持ってドライブに連れていってあげようと思っていたので、それが果たせなかったことだ。
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