takaのメモ帳   2008年6月

Column
1 かなり暇だ。
2 
新渡戸稲造にとべいなぞうの武士道
3 
嘘つき注意報(美しい言葉は、口にするものではない)


2007 6 30(土)
18:00
 かなり暇だ。金はあるけれど、かなり暇だ。欲しいものがない。何か買っても使わなければ無意味ない。つまり、時間も金も物も要らない状態にある。今、私が欲しいのは適切な刺激と興奮だ。そのための人が欲しい。新しい芸術に邁進するために金と時間と物を使おうか。

 本気で新しいことを始めると、全てを失うことを知っている。何かを手に入れるためには、それに似合う対価を支払わなければならない。これまでは安全策を取ってきたから、そろそろ安全を捨ててしまおうか。それとも世の中で生きていくために、これまでと同じようにバランスを取りながらちょろちょろやろうか。今は中途半端、心底好きでないことをしているから、時間も金もダブついている。必要なものは勇気や決断、あるいは、事故や出会い。努力ではない。

 もっと渾沌とした人間関係の中に身を沈めようか、それとも隠遁か。どちらにも舵をとれる境遇にいる人はそれほど多くないから、僕は稀な存在だろう。この環境を使うことが使命なら、『暇』という人生を生きていこう。

新渡戸稲造の武士道
 最近、新渡戸稲造の武士道を研究している。2週間前まで『武士論』と思っているほど無知だったが、とある女性から彼を紹介され、それから夢中になって調べている。彼は『武士道』を英語で著した。その副題は『The Soul of Japan(日本の魂)』。

 この本は、言葉によって日本の魂を構築している。私は英語で書かれた原文ではなく、岬龍一郎が日本語に訳したものを読んでいるが、それは、優美で繊細な木造建築、奈良の大仏殿のような巨大建築物のようにそびえ立っている。しだいに細部まで見えるようになってきた私は、漢字とひらがなが入り交じった日本語を使い、新渡戸が画いた日本の魂を再構成している。

 以下は、今現在、私が掴んだ武士道だ。これは新渡戸とは違う考えや私の誤解を含む。将来、私の考えが変化することは言うまでもない。さて、初めに日本人の行動基準『義』を定義する。義は見つけ難く、義は不明瞭なものである。

義の特性、定義など
(1) 時間(年代、世紀)によって変わる
(2) 場所(環境)によって変わる
(3) 個人によって変わる
(4) 義=良心そのもの
(5) 義=利害を考えない、その人の正直な心
(6) 義にもとづく行動は、大変な勇気が必要なことが多い
(7) 義の実践は、自分の命を失う可能性をもつ
(8) 究極的実践の1つとして切腹がある
(9) 義=心優しく、平和を愛する
(10) 正しい義を正義という
(11) 義=生きるため
(12) 弱肉強食の自然の中に生きるものの掟
(13) 生きるために敵を殺したり、食べたりする自然界の掟
(14) 義は全世界の人々、全生物に共通する掟
(15) 義は美しさを感じる
(16) 義には無駄がない、目的がない
(17) 義=必然=自然そのものである

 以上のことを総合的にみると、義は文章化された「法」ではなく、本当に強く心美しい人の中だけに存在する「真実そのもの」あるいは「自然の掟」である。これはかなり難しい。これを理解するためには、まず、自分の心が強く、美しくなければならない。心に正直でなければならない。昔の子どもに限らず、幼い子どもが「正義の味方」の勇敢な戦いに心打たれるのは、そのためであろう。大人よりも弱い子どもは、残酷であると同時に美しく、真実を見抜く力がなければ生きていけないからである。

 さて、ここまで書くのに1時間25分使った。ラジオを聞きながら書くという、私の信条に反する環境で執筆したが、ここまで読んで頂いたみなさまに感謝いたします。どうもありがとうございます。これからも、自分自身のために、メモを公開します。なお、私のHPを昔から読んで頂いている人はご存知かと思いますが、takaのメモ帳は1997年に発足しました。当時とは形が違いますが、発表そのものを目的として、できるだけ毎日更新したいと思います。どれだけできるか自信がありませんが、、、

嘘つき注意報
(美しい言葉は、口にするものではない)

 新渡戸は、愛国心についても述べている。彼は、「愛国心という言葉は、美しいが故に注意しなければならない」と著したが、これを今の日本国首相の政権構想「美しい国、日本。」に添えておきたい。私は武士道を読む前から、阿部総理大臣の構想はかなり注意しなければならないと思っていたが、ここに確信を得た思いだった。

 「美しい」ものには気をつけなければならない。当たり前である。美しいものには理由がある。美しものは他を惹き付け、他の犠牲によって美しさを保つ。美しいものは、それに似合うだけの犠牲を他に強いる。美は恐ろしい力を持っていると同時に、それだけでは存在することができない。また、美は醜と隣りあうときに、もっとも輝く。

 愛国心は、個人の心底から湧き出てくるものであって、他人から押し付けるものではない。まして、学校や他人や親が教育するものではない。人が助け合って生きていくことを通して、自然に沸き上がってくるものである。まして、国政を操るものが指導するとは論外である。義の1つである愛国心を利用することは、為政者として許されない。

 日本の魂を本当に尊重するなら、愛国心という言葉を振り回すのは止めていただきたい。私は、日本の国を愛しているが、それを声高に吐露したり、何度もテレビでくり返し訴えることはしない。するわけがない。日本人は慎ましさを礼儀の1つとする。本当に愛しているものは、そっと自分の心の内にしまっておくものである。もし、部外のものに、自分の愛する国を語る必要がある時は、「日本はそれほど大した国ではありません」と謙虚に、へりくだった言い方をするのが、日本の作法であり、他人に対する接し方、礼儀なのである。 

 私は日本に生まれて良かったと思うし、日本人が守ってきた伝統や礼儀作法を伝えていきたいと心から思っている。そして、念じているだけでなく、実践しなければ日本人ではないと思っている。このようにHPで発表することは、私にとって利益よりも不利益をもたらす結果になるが、義を見てなさざるは勇なきなり、である。義を唱えるだけでは日本人とは言えない。真の日本人は、切腹によって肉体を失おうとも、その魂を永遠に生き続けさせようとする。

 ここで現実の社会を見渡すと、日本の魂をもっている者は少ない。

 日本の魂を持たないものは、持っているものに憧れ、持っているものの武勇伝を聞いて自分を慰める。私はまだまだまだまだ未熟で、義をみても何もできなかったり、打算ばかりしているので、もっともっと自分の心に従って行動しなければならない。それでなければ日本に生きている資格はない。「日本は美しい国です」と外国人に自慢するようになったら、日本の魂はお終いである。

 ここで歴史を振り返ると、日本列島がユーラシア大陸から分かれて1万年経ち、日本の魂は少しずつ個性を顕わしてきた。海によって諸外国の影響を受けない島国の魂である。しかし、本当に強く美しい魂をもち、それを発酵させていった者の数は少なかった。大部分の者は、私利私欲に走り、義を見ても勇なく動かなかった。あるいは、権力に流されていった。

 これは現代社会においても同じである。先に、我が国の為政者たちを批判したが、これは今に始ったことではないし、私自身も批判されるべき者である。よくよく探せば、近所の豆腐屋、職人さんの中から、戦国時代より進化した魂を受け継ぐ者を見つけられるだろう。日本の魂は、ごく一部の強く美しい心をもつ者によって受け継がれ、これからも発展していくだろう。人類が滅亡しても、未来永劫に続くのである。

 逆に、歪んだ形で魂を受け継ぐ者は、現在、金の亡者に仕える企業戦士として諸外国から恐れられている。前の世界大戦では、自爆攻撃をするゼロ戦闘機だった。これらは、為政者の偽善や、彼等が作ったまやかしの正義にもとづき、自分を他人を死の淵に追いやる行為だった。資本主義や民主主義は、その歪みを修正するか、新しい主義と交代する時期にきている可能性が高い。

21:00 夕食
 キッチン歩道橋にて、チキンカツ定食を頂く。かなり旨い。いつも旨いが、今日は腹が減っていたので特に旨い。やはり空きっ腹に食べ、しかも、腹八分目に抑えるのが健康によい。私の胃袋はもともと小さいから、かなり空いている状態から始めなければ、1人前で満腹になってしまう。

 武士道についてもう少し書きたいが、そろそろ眠たくなってきた。午後10時消灯は健康によいので、良い子は今日も寝ることにしよう(一説によると、悪い奴ほど良く眠る)。

 おやすみなさい

続きをどうぞ!
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7 月

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