takaのメモ帳  

2007年 7月
 長野県 焼岳 23(月)


2007 7 1(日)
5:30 起床。

 良く寝た。
 私は悪人かも知れない。

マイルスの自己に対する厳しさ
 さて、朝から、マイルスデイビスのSEVEN STEPS TO HEAVEN を聴き流している。マイルスは謙虚さを嫌った。この点においては、武士道とは正反対の立場で行動した。彼は己の感性と判断を信じ、それだけにもとづいて音楽を追求した。しかも、言葉を絶ち、トランペットという楽器による表現に全てを託した。

 次に、マイルスと私の行動、および、武士道について考察する。

 音楽や芸術の評価については、私はマイルスと同じ態度をとる。つまり、他人の評価を気にしない。自分だけを信じる。これは、武士道の「義」に通じる。義を判断することは大変に難しいが、最終的には、義を持つものなら全員が同じ判断をする。したがって、自分自身の心に耳をすませば十分なのである。外部の雑念や雑音は、正確な判断を鈍らせるだけである。

 マイルスが謙虚さを嫌ったのは、自分を厳しく判断していたことが原因だ。つまり、絶対的なものを感じ、それに対して正直に判断し行動しているから、謙虚さは必要ない。むしろ、謙虚になることは、自分を超えた絶対的な芸術や感動に対する冒涜であると考えていたのかも知れない。私は、この考え方と態度に賛成する。

 しかし、私はマイルスと同じように正確な自己審判と自己評価は大切だと思うが、それを外部に口外する時には、謙虚さを求める。なぜなら、大部分の人はマイルスのような厳しさを持っていないし、持つことができない。一般的な家庭で育ち、一般的な教育を受けて者に対して、彼が到達したような判断力を求めるのは無理である。

 謙虚さは、相手の立場に立つことに始まるが、他人と同じ立場になることは永遠に不可能である。例え、法的な立場は等しくできても、それは法以上のものではない。産みの親を等しくすることはできない。したがって、互いに完全に理解し合うことしかできないから、相手を尊重するより他に道はない。

 また、マイルスは言葉で語ることを嫌ったが、私は言葉で語ることを厭わない。可能なら、図表にしたり、写真で提示したりする。できることなら、何でも取り入れる。それが私の個性である。しかし、厳しく正確な結論を述べれば、私が多様な方法を用いるのは、一芸に秀でていないことの証明である。私は一流ではない。私はそれを悲しむのではなく、それを受け入れて生きる。それが私にとっての厳しさである。


2007 7 2(月)
4:10 起床。3:59に目覚めてから、11分も必要としたことに嫌悪を感じるようにしたいが、それほどまでする目標を立てることが先決である。現在のところ、音楽を聞きながら読書するという、これまでにない「ながら法」が成功している。おそらく、2つの刺激をミックスルすることで、中途半端さを誤魔化しているのであろう。この結果は、近いうちに検証される。

 私は質問されるのは好きだけれど、答えるのは嫌いだ。同様に、質問するのは嫌いだけれど、答えてもらうのは好きだ。この一見矛盾した考えは矛盾したままにする。人間の存在は矛盾しているのだから、このまま放置しておけばよろしい。

 昨日、図書館で『葉隠』という本を借りてきた。武士道に関する本である。この個性溢れた本は、私の弛んだ心にちょうど良い。自分を反省し、引き締めるべきところはそうする。また、この本を読むにあたっての課題は、1650-1700の日本に存在していた「主君」に相当するものを、今に見つけることである。『葉隠』では、「主君」は自分が信じる対象(宗教に近い)と感じているが、まだ1/4も読んでいないので、できるだけ早くその正誤を見極めたい。もし、信じるだけで良いのなら、私は自分の中にその対象を見つけることができるが、それは、すぐさま行き詰まる対象であることも告白しなければならない。

20:00 アップルストア栄でレッスンを受ける。

22:50 消灯


2007 7 3(火)
6:30 起床。昨夜はビールを1本頂いたので大変に遅くなってしまった。大変疲れたのと嬉しいことがあったので、冷蔵庫を開いてしまったのである。できることなら、翌朝(今朝)のことを考えて自粛したい。ビールは飲まなければならない時があるから、それ以外は飲まないように心掛けることが大切である。

 さて、『葉隠』は未だに完読できていないが、著者「山本常朝」と「田代陣基」の武士道においては、義より大きなものを論じようとしている。このことが、新渡戸『武士論』の骨格ともいえる「義」の定義を曖昧にしてしまった原因であると感じている。


2007 7 4(水)
18:50 クロッキー
21:00 二次会
23:00 消灯


2007 7 5(木)
 早く寝るつもりが、外部要因により遅くなってしまった。致し方あるまい。

・台風や地震の巨大エネルギーに対して神を感じなければ、人間ではない。人間には、人間のエネルギー・スケールがある。それを感じないようになってしまったなら、人間としての感性を失っていると言わざるを得ない。そのような人がいることも悲しいが、エネルギーを感じないように努力している人がいることは、もっと悲しい。
・神は美しく感じるものである。信じるとか信じないとかいう問題ではなく、感性の問題である、とするのは日本人的な感じ方である。
・神は生きている。
・神はどれだけいてもいい。
・食事前の頂きますは、自然への感謝の念。
・針供養は、針1本にも神を感じている。
・捨てない、勿体ないという感性。
・八百万の神々。
・哲学は形而上を論じるが、その手段として言語に頼る以上、言語の曖昧性に左右されることから免れることはできない。永遠に解決ができない理由の1つとして、論点ではなく、手段としての言語の性質をあげることができる。
・宗教は信じることから始まるので、合理性は必要ない。むしろ、合理的なもの、理知的なものを求める宗教こそ疑うべきである。
・文学は言語の美しさを求めたり、新しい言語世界を創造したりする。
・自然科学は、形而下の現象や物体を対象とするので、実験や観察が可能である。逆に、実験観察が不可能な対象は自然科学の対象とすべきではない。ギリシャ時代の流れをくむ『自然哲学』は、科学と分離させるべきである。もし、統合する必要があるなら、新しい分野として再編成、創設する時代にある。


2007 7 6(金)
4:10 起床

私の夢には色がない
 私は目を閉じると、物体の特徴やその情感は明確に再現できても、色は永遠に失われたままだ。どんなに赤や緑などの色をイメージしても、着色できない。何度くりかえしても同じだ。色が決定的な印象をもっているはずの事物でも同じだ。これは布団の中で見る夢も同じで、色がない。多くの人はカラーの夢を見ると言うが、私は一度も体験したことがない。何しろ、意識がはっきりしている日中でも、目を閉じた途端に色を失ってしまうのだから。

 この色なし世界は、私の幼児体験にもとづく可能性がある。私は幼い時から早起きで、毎朝暗いうちから、近くの神宮寺へ参拝に出かけた。歩き始めは「薄暗がりの世界」であるが、その世界はだんだんと色を帯びてくる。私は目を真ん丸にして、草木や建物が色の世界に変わっていく瞬間瞬間を見るのが好きだった。私はその時の色を感じ始める体験と喜びを、今でも強く想起できる。

 オシロイバナの赤と緑は、色以上のイメージと感情を想起させる。それは、毎朝一緒に参拝に出かけた叔母の思い出であり、清楚で冷たい空気、オシロイバナの甘い蜜の味と香、ぴーぴー鳴らした時の音と同時に現れる。それらは複合したイメージでありながら、個別に存在し、極めて明解な実感を伴う。また、その色は、暗い無彩色の世界からしだいに表出する色である。

 この早朝の空気感は私にとって最高のものだ。好きだからこそ、私は無彩色の幽玄美を愛し、無意識のうちに色を消してしまうのかも知れない、と前向きに解釈している。さらにまた、事物や事象の本質を見抜くためには色は障害になることがことが多いから、とも考えている。

 ついでに補足しておくと、私は他の人より色彩感覚が鋭敏であると感じている。絵を描く時は、初めに具体的な事物に左右されることなく本質を捉え、その次に、それに適した色をつける。色は一般の人が喜ぶように配置すれば良い。できるなら、人が驚いたり楽しんでもらえるようしたいが、あまりに奇抜なものにすると(さらに)変人と思われるだけなので、その加減が重要である。まあ、色については随分気楽に考えている。

 色即是空。空即是色。色がない世界に棲む者にとっては、一生理解できない言葉である。世界に色はなく、世界は初めから空である。


2007 7 7(土)
6:20 起床

 『葉隠』を一通り読んで、2度目に入った。

 これは、生きるための書物である。したがって、生きていないものが読んでも意味がない。ここで言う「生き者」とは、「弱肉強食の世界」に生きる者の中でも、とくに、自分が生きるために他の生物の生命を奪う必要があることを自覚している者である。食べ物に好き嫌いがあり、ピーマンやキュウリが食べれなかったり、動物のレバーやホルモンを食べれないような者は、生き者に該当しない。そのような者は、知性や理性によって生きる「大脳生物」として区別する。

 また、この本は、身辺整理ができない者には理解できないであろう。身辺整理の意味は、結婚や人事異動や自殺の前に行う書類などの整理であるが、毎日の瞬間瞬間に集中していれば、自然に身辺整理はできているはずである。「明日も同じだから」、「片付けてもすぐに使うから」などと考えているのは、明日も同じ生活をすることを前提にしているのであって、進歩しない人の話である。そのような安全が保証されている環境で暮らす者に『葉隠』は関係ない。

 私は安全で食事も満ち足りた生活をしているが、自分が「生き者」であることを自覚するように心掛けている。無駄なことはしないし、勿体ないことはしない。ケチと言われも無駄はしない。必要なことは以外はしないよに心掛けている。勿論、毎日のように失敗や無駄をし、部屋の片づけも十分にできないが、1個体の生物ができる以上のことをしないように心掛けている。その上で、私に与えられたチャンスと使命を全うし、万人や自然に還元できるものがあえれば、惜しみなく与えたいと考えている。

 昨年4月から地下鉄通勤をするようになったが、私は地下鉄のプラットホームや電車の中で本を読むのが好きだ。空気が悪く、騒音に満ち、本を十分に開けることができない環境であるが、そのような環境の方が私に似合っている。自室の満ち足りた空間より集中できる。とくに、帰りの地下鉄では、構内ベンチに座り込んで何本も地下鉄をやり過ごし、乗り継ぎのホームでも同じことをする。昨日もベンチで1時間ほど貪り読んだ。通勤客や地下鉄職員の中で、私のことを変人だと思う人がいても、当然だと思う。

道徳心
 道徳心は、いつの時代も危機に瀕している。武士道が生きていた(『葉隠』が書かれた)時も、武士道が無くなる(『武士道』が書かれた)時も、そして、武士道が亡くなった現代も同じである。世の中が常に危機状態であることは、このように歴史が証明している。道徳心を持っている者は、一般庶民から政治家に至るまで一律に少ない。道徳心を持っていても、多くの人は金や力や権力と引き換えに忘れてしまう。この状況は時代を通して変わらないから、今の政治家に道徳心がないといっても、不思議ではない。むしろ当然である。したがって、せめて戦争だけは起こさないように見張るのが国民の仕事と言えよう。現実問題としては、憲法9条、および、憲法改正は今の政治家には任せないことが肝要である。戦争は度々くり返されるが、イラク戦争に加担している現状では、憲法改正はあり得ない。

 一般庶民と政治家を比較した場合、政治家には「生き者」より「大脳生物」の方が多いから、もっともらしい言葉を言うのは当然だ。しかし、戦争で死ぬのは「生き者」だけである。「大脳生物」が死ぬのは、戦争に負け、裁判に架けられた場合に限られる。したがって、「大脳生物」は戦争に負けなければ絶対に死なない(これは最近100年の戦争の歴史を見ればわかる)ので、自分の命を存続させるために「生き者」を湯水のように使う。この行為は、私の考えによれば無駄使いである。無駄なこと、勿体ないことは黙って見ていてはいけない。それは、あなた自身の無駄死に直結する。

 人々は常に道徳心を必要としている。なぜなら、人々の中に道徳心が無いからだ。十分に持っているものなら渇望するはずがない。無いから、ちょっとした人生本、処世術、人とのつきあい方、作法やマナーに関する書物、宗教などを必要としているのだ。

 さて、ここで道徳心の定義をしておこう。道徳心を「道徳がある人の心」としたとき、先に説明が必要なのは「道徳」である。さらに、道徳を「徳の道」としたとき、徳を説明することが先である。

 徳については、かなり不勉強であるが、野生動物と人間を区別するものであることは間違いないだろう。この前提が正しいなら、野生動物との違いを順序よく並べれば、低い徳目から高い徳目が並べることも可能だろう。また、徳から反することを「不道徳」として選ぶことができるだろうが、今の私にはできない。

人以上
・徳では説明ができないし、徳を持たない。徳を必要としない。
・全く違う何らかの基準を持つ。
・人以上のものは、人に理解できなし、人の言葉で説明できない。
・人間社会に秩序をもたらすもの。
・支配者に必要なもの。
・生活にゆとりがなければ成り立たないもの。
・仁、義、礼、智、信、および、孝、悌、忠(儒教)。
・知恵、思慮、勇気、忍耐、節制、正義(ギリシャ、プラトン)。
・謙遜、喜捨、人間愛。
野生動物 ・本能に従って生きてきたし、今も生きている。本能のまま生きることは、過酷な自然界で生きる唯一の手段であり、本能がなければ他の生物や環境の変化によって絶滅していた。したがって、本能は最も大切な重要なもの(掟、理)であり、人間の「徳」に相当する。
・本能にも「高低」があると思われるが、徳目と同じように分類できるものではないであろうし、ここでは論じない。
・人以下と思われている野生動物の中にも、人以上のものが存在することは間違いない。ヒトが認知できないだけのことである。

※そもそも、上表のように分類すること自体が間違っている。ヒトとそれ以外、あるいは、人間と人間外とするべきであろう。また、地球上に生存する全ての人間を同列に論じるのは不可能だと思うが、一般的な生物学の「種」の定義によって同じ、とすることは可能である。

 道徳心は文章にすることができない。私が伝えようとしていることは100%伝えることができない。なぜなら、心は肉体とともに生きており、心は肉体と同じように成長し成熟し腐敗するからである。また、私の心と行動は時間、環境(空間)によって変化するから、道徳心も変化する。その変化の有り様さえも含むことで、道徳の『道』という語句を理解しなければならない。

 ここで一子相伝についても論じておこう。本当に大切なことを伝えるのは、並み大抵のことではない。何かを伝えようとすれば、その人物は自分の骨身を削って伝えるしかない。そして、伝えようとするものが大きいほど労力は膨大になるので、正確に伝えるためには1人が限界になる。つまり、2人に伝えられるほど簡単ではないことを意味する。さらに言うなら、1人に集中しても伝えられるかどうかは分からないし、仮に伝えることに失敗したとしても、1代で失われたとしても諦めるべきである。

教育する、ということ
 他人を教育し、伝えることは並み大抵の努力では不可能なことは、全人類が再確認する必要があるだろう。そして、不道徳なことを伝えることをせず、一歩踏み込んで、無意識のうちに不道徳なことが伝えられていないか日常生活を反省することが大切である。不道徳の結果は、社会的に幼く弱い子どもに表われるから、子どもの問題行動を分析することが大切だ。ここから先の意見は、ここでは控える。


2007 7 8(日)
6:20 起床

現代カラオケ考
 昨夜、どうしても、とせがまれて嫌いなカラオケに行った。

 前回のカラオケを思い起こせば2年3ヶ月前だったと思われるが、定かではない。全く興味がないからである。しかし、今回は丸々2時間連続して起きていたので、カラオケ後の考えを記録する。ちなみに、マイクとリモコンには触れなかった。

 カラオケに行く人は、エネルギーの発散、ストレス解消を必要としている。個室では大声で叫び、人目を気にせず単純なリズムに合わせて身体を揺することができる。

 したがって、選曲される歌に音楽的な美しさを求める必要はない。選曲のポイントは、単語、句(フレーズ)、文、あるいは、文章(歌詞)である。普段、叫びたくても叫べない心の叫びを叫ぶのが目的だからである。感情を込めて、あるいは、暴力的に吐き出せるような曲が選ばれる理由がそこにある。

 また、スローテンポな曲よりアップテンポな曲が好まれるのは、その空間にいるものが身体を激しく揺することができるからである。知らない曲でも身体を単純に揺すり続けば、一種のトランス状態に陥り快感を得る。したがって、遅い曲は疲れた後のひと休み、休憩となる。

 他人の曲を聞かずに自分の曲を選ぶことは、参加者全員が認めているようだ。なぜなら、自分のストレス発散を第1目的にしていることを自覚しているからだろう。その一方、仲間が一緒に歌う場合は、心を1つして連帯感や喜びを感じることができる貴重な時間となる。同じストレスを抱えている場合なら、なおさらである

 以上が2時間のカラオケ体験の収穫である。私は歌うことはなかったが、もし自分が歌うなら、第1の目的は楽しい曲を美しく楽しく歌うこと、第2の目的は人に誉められること(喜んでもらうこと)である。自分だけの満足なら、人前で歌う必要はない。「福地君、うまいね」と言われるのは慢心に繋がりかねないが、下手な歌を聞かせることは私の作法に反する。もちろん、歌には心が一番大切であることを知っているが、やはり不作法なことはできない。

 結論として、私のカラオケ嫌いは次のようにまとめられる。
(1)カラオケボックスで美しく楽しい音楽に触れることは期待できない。
(2)私は、ストレス発散の目的に音楽を利用したくない。
(3)私は、ストレス発散の方法を他にいくつも知っている。
(4)現代日本社会の音楽界は営利目的のカラオケに重心をおくため、歌謡曲の音楽要素が変質している。
(5)タバコ臭い。

私の過去を振り返って:
 カラオケが流行し始めた20年前は、スナックと呼ばれる飲み屋でよく歌った。当時、私が選曲していたものは、上記考察のように自分の心と重なるもの、また、音楽的に共感できるものだった。自宅でもよく練習をしてから歌ったものだ。踊りは25年以上前になるが、ディスコと呼ばるところで毎晩、最終まで踊っていた。よく飽きもせず通っていたものだと自分でも驚くが、若いエネルギーを解放する場所が他になかったのであろう。酒を浴びるように飲み、酒に飲まれることもしばしばだった。
 自分の過去を振り返れば、カラオケは若者にとって必要なものだろう。ストレス社会で生きるバランスを取るために不可欠なものである。精神科の医者に金をかけるより、よほど健全で前向きな活動であると結論できる。


2007 7 9(月)
18:30 クロッキー


2007 7 10(火)

 注文しておいたDAコンバータとCDプレイヤーが到着し、実家のシステムに繋いだ。やはり、かなり良い。普通のプレイヤーでは聴けない色が出る。何回も聴いたディスクでも新しい発見がある。とくに、肉声とトランペットの色つやを信じられないほど、異常なほどに鋭敏かつ繊細に感じる。これは60年〜20年ほど昔の録音のもので、最近の録音のものは音の歪みがより鮮明になった。このように録音環境が手に取るように分かるシステムを使うと、私が20台の頃に使っていたシステムと当時の「若気のいたり」を思い出す。かなり恥ずかしいことばかりをしていたが、今は鑑賞者としての立場をわきまえ、心静かに演奏家の感性を楽しみたい。


2007 7 11(水)
 良い音を聴いてから眠ったので、昔、音楽が好きだったころの感覚を思い起こしていた。夢の内容はさっぱり記憶にないが、心地よい音を楽しんでいたと思う。私はもともと音楽が好きだから(愛していると表現しても良い)夢中になってしまう。夢中とは文字どおり、夢の中であり現実ではない。しかも、溺れる可能性があるので、かなり危険だ。とくにクラシックは危険で、聴けば聴くほどに演奏家の情熱そのものに感じ入ってしまい、精神が異常に覚醒されてしまう。弦楽器の中でもバイオリンはもっとも危険だ。

 近い将来、音楽の世界に再び脚を入れる可能性がある。ただし、身のほどをわきまえた鑑賞者としてである。そして今はまだ、音楽を解禁してはいけないと思う。私にとっては身を滅ぼすほどの力を持っているから、もう少し他の分野の修行に専念しなければならない。封印を解くのは簡単だが、惰眠を貪るより危険なことは自分が1番よく知っている。

 さて、『葉隠』はもうすぐ2回目を終える。現在の私の力で得ることができることについては60%程度会得した。もう少しがんばろう。そして、自分の血肉となったもの、なっていることだけを記録しておこう。


2007 7 12(木)
 『葉隠』を終え、3度目に入ろうかと思っている。しかし、現在の私の力量で理解し実践できることはほぼ修得できたと思われるが、根本となるところが欠けているので、これ以上時間をかけても仕方がないことにも勘づいている。

 武士道の真髄は「主君を信じること」にある。この1文には、2つの重要な語句「主君」と「信じること」があるが、私が問題としているのは「主君」の方である。

 結論から述べると、私には「主君」がいない。もちろん、職場では「職場の長」が主君であるが、それ以外の場所においては存在しない。自分自身の中にもう1人の人格を設定し、それを主君とすることもできるが、それ方法は模索中である。おそらく、世捨て人なら比較的簡単にできると思われるが、現世で生きようとする以上は、これまで誰も思い付いていない独自の方法をあみ出す必要がある。

 現代日本社会の状況を考えても、自分以外の具体的人物に「主君」を設定することは難しい。男女が平等になり、一家の主人(あるじ)さえ失われた社会では万人が無理ではないかと思う。個人の自由と責任、尊厳を認める社会において、他人を主君とすることはかなり厳しい。これが武士道を理解し実践できない最大の理由であるが、せめて、職場において限定的に武士道を実践するしかないと考えている。ただし、武士道は24時間実践されなければ意味をなさない。道は歩むものであり、途中で途絶えたり枝分かれしたりしない。

 次に「信じること」について述べよう。信じることに理由はない。また、信じるということは24時間寝ても起きても信じていることであり、休むことがない。死んで生まれ変わっても、また同じように信じることを意味する。そして、裏切られ騙されているように感じても、「そんなことはない」と信じ続けなれば、信じているとは言えない。実際、生身の人間が現実社会で何か1つを信じ続けることは大変な努力が必要である。他人が見て「あなたは気が狂っている」と言われても信じ続けなければならない。

2:00 起床
 昨夜は早く寝たので目覚めが良い。しかし、素早く布団から抜け出せたのは、気掛かりなことがあるからである。その内容は、自分の不徳、力量の狭さ、不勉強、勇気のなさ、悪行についてであり、それ以外にない。もし、「すべては主君のため」と言い切れるものがあれば腹をくくって死にものぐるいで突き進むことができるが、先に述べたように絶対的に信じる対象がない。

 振り返れば、私は神仏を信じていないが、神仏を尊重することはしていた。また、現代の宗教法人はさておき、自然の森羅万象に神を感じていた。森羅万象ということは、複数の神々が存在を意味する。つまり、あなたも神であり、私も神である。テレビ、空気、金、水、ヒマワリ、本も神である。そして、それらの神々をすべて、ほぼ平等に位置づけている。
※日本の神話では、神々の関係や序列が述べられている。

 私の神に対する考え方は、現代の個人主義に大きく影響されている。これは、個々の神々を尊重する結果として、「神は神でなくてもよい」ことになる。わざわざ、「神」という語句を使う必要がない。したがって、私が現在使っている「神」は、近い将来新しい造語によって置き換わると思われる。機が熟せば、自ずから具体的な形態をもって私の中に出現するだろう。焦る必要はない。


2007 7 13(金)
 ますます自分の未熟さが露見するばかりで、恥ずかしくなることばかりだ。齢45にしてこの有り様だから、この先が思い遣られる。人生は恥を積み重ねたることと見つけたり、と書きたいが、それを書くにはまだ恥をかき足らぬ。もっと恥をかくために勉強し、いろいろな事物を見聞しなければなるまい。孔子は齢40にして惑わず、であったが、私は45にして知恥。かなりお粗末である。

 下手の考え休むに似たり。
 下手の横好き。
 下手な鉄砲も数打てば当たる。

人間社会の構成人員
・数万人から数10万人が良いだろうと思う。
・全員が同じ立場では、健康な社会を構成できない。個人の能力や適性の応じた分野で、それぞれが生き生きと活動することが基本だから。
・立場が違うと、不平等を感じる者が発生するが、それを不可抗力として受け入れられる社会でなければならない。全員が生涯を通じて同じように平等感を感じ続けることは不可能である。不平等を感じる者は社会に混乱を招くが、その者も大切な存在として、大多数の者がその立場を認めなければ健全な社会とは言えない。
・かつては階級社会であったが、その階級はどこへ行ってしまったのだろう。巧妙に隠され、騙されているような気がする。現在は不透明だった格差社会を明らかになりつつあり、その事実から注意を逸らすために天災(地震など)やテロや戦争不安を作っているように感じる。
・皇室は明らかに違う階級に位置している。
・主君に相当する者はどこにも存在しない。民主主義という制度のもとでは、入れ代わり立ち代わり為政者が変わるので人々は絶対的系譜がない。今の選挙制度は、人類や地球を幸せな方向に導いている断言できないのは、1国の範囲が巨大になり過ぎたのかも知れない。否、人間が増え過ぎたからだろう。

 今日も休んでばかりいる。

・私は打たれ弱い人間である。
・勝負事は嫌いだけれど、それでは弱肉強食の世界では生きてゆけまい。
・唯一の生きる方法は逃げ回ることだろう。
・草食動物のようだ。
・逃げまどうことを恥じることは、自分を否定することになる。
・草食動物とて、植物を殺すことによって生きている。
・草食動物が生まれ変わり、肉食獣や菌類、あるいは無機物に生まれ変わる。
・生まれ変わるにはかなりの努力が必要と思われるが、不可能ではない。
・強い意志があればできないことはないだろう。
・自分には花がない。

===

 自分の限界を感じてかなり凹んでいるが、限界を認めるより仕方ない。限界です。ご免なさい。と言うしかない。それ以外に生きる道はない。

 今ここで、道という単語を使った。道とは生きることそのものである。生きる道、ここに武士道を読み解く1つの鍵がある。

 自分が生まれ変わるとしたら、植物ではないかと思う。動物のように動き回るのではなく、大地に根をおろして運命を受け入れるものである。光合成によって、自らの力で有機物を合成するものである。ただし、光合成の働きは自らの意志によるものではなく、単純な化学変化として無意識の内に行われている。

 かつて、私は自分を秋桜(コスモス)に例えていたが、どうも違う。あのように美しい花は持たないし、それほとまでに可憐な容姿をもっていない。冷たい秋風に吹かれてもへこたれない所が1番良く似ていると思っていたけれど、歳を重ねて弱くなってきた。

 私の辞書に、心的外傷(トラウマ)という単語を追加しよう。トラウマとは、牛乳を1分間に7本飲んだ人が激しい下痢になり、その後20年近くたっても牛乳に対して抵抗力を失ってしまう身体的外傷と比較できる。好きな牛乳が1本も飲めなくなった者は、何を隠そう私であるが、今は1本ならゆっくり飲めるように回復した。つまり、回復不可能となるような外傷を負う危険は、全力で回避しなければならない。その場合、自分以外のものを考慮する必要はない。他者にどのように受け止められようとも、これは生死の問題であり、自然の掟である。生きる道である。
※ 外傷回避の行動に対して、「道」という単語を使うべきかは現在のところ不明。


2007 7 14(土)
 今日は朝から生物学の校正を行っている。かなりしんどい作業だ。思えば、化学と生物の校正を始めてから1ヶ月が経過する。どれほど直してもらえるか不明であるが、自分は報われなくても最善を尽くすしかない。出版社にも都合があると思うけれど、全部直してもらえると嬉しいなあ。読者も喜んでもらえると思うし、最終的には出版社にも喜んでもらえると思う。コンピューターのOSがバージョンアップするようなもので、1回毎に優れたものに変わっていくように。また、世代を超えて愛してもらえる書物にしたい。現在は、自分の伝えたいことを十分に表現できているとは言い難い。その点においては、私はとても欲張りだ。

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 台風4号が九州に上陸して、猛威を振るっているらしい。とても可哀想だけれど、台風については日本古来の自然災害の1つだから、神を感じる好機として、前向きに受け止めるしかない。人為的災害とは明確に異なる。 それにしても、万人が等しく自然の強大エネルギーを実感できるのが災害時だけだとしたら、現代日本は不幸せだ。、、、今はひたすら無事を祈るしかない。

 (神による台風被害は甚大で同じように考えられないが、)
 人の幸不幸は、自分に心の持ち方の他に、環境によるところが大きい。自分より不幸せに見える人が多ければ幸せに感じるし、小さな幸せを見つけやすい。また、その逆もしかり。結論を急ぐと、人は自分1人では幸福であることを感じれられない。そもそも、幸せという言葉は人間が作った人間だけに通用するものであり、感情でも理性でも知性でもなく、ただの言葉遊びの1つなのだろう。哲学では「幸福」について論じることもあろうが、私は幸福そのものを哲学に属する産物として片付けてしまおうと思っている。

哲学について
 この他の哲学(形而上)の問題は、幸不幸と等しい問題であり、その中に「哲学とは何か」という問題も含まれる。真実を追求する姿勢は賛成するが、生きるためには必要ではないから、一般人は知らなくても良い。生活にゆとりがある人の、個人的な趣味嗜好であるといってもよい。したがって、一般の人に「幸福論」を持ち出して混乱を招く者は、ある一定量のゆとりがある社会集団から、その「ゆとり」や金銭などを搾取しようとしているのかも知れない。もちろん、本当に他人の幸福を願う者もいるが、その者は、目の前にいる不幸な人々が「過去の幸福論」によって不幸にされた人々であることを忘れてはいけない。

・形而上の問題を一般に持ち出すなら、哲学や幸福などについて論じる楽しさに主眼を置かなければならない。さもなければ、純粋に哲学を楽しんでいる人々にとっても失礼だ。

・最近、哲学に興味を持ち始めたが、その起源を自然哲学(ギリシャ時代)とするなら、現代の哲学は質を全く異にするように感じる。

・このtakaのメモ帳は、基本的に日本語を使った日々の記録であるから、哲学的要素を持つ。哲学的要素とは、言葉による言葉の定義、言葉による言葉以上の定義を指す。

・このtakaのメモ帳は、真実や真理を追求するが、答えは永遠に求められないことを知っている。万事に絶対はなく、時代の変化によってより新しい総括的な考えによって、とって変わられる。この点(答えがないことを明確に意識していること)については科学と同じなので、哲学は科学の1分野として定義できる可能性も持つ。


2007 7 15(日)
 朝刊を読むと、私が敬愛する先生の1人が参議院選挙に立候補されていた。元気な顔写真とともに選挙公約を読み、ころ合いを見計らって電話を掛けた。通じない。忙しいに決まっている。しばらくすると、電話がかかってきた。今、名古屋駅での演説を終え、これから裏口で演説されるとのことだった。私は邪魔していけないと思い、電話をすぐに切ってしまったが、居ても立ってもいられず車を走らせた。名古屋駅を駆けてみてが、いらっしゃらないので再び電話した。お付きの方が電話に出られ、八田駅に移動されたということなので、すぐに向かった。お会いできなくても仕方ないと思っていたが、選挙カーで移動中のところを発見し、声をかけさせて頂いた。がんばって下さい。

 日本のためだけでなく、全人類と地球のためによろしくお願いします。今の人類は、大袈裟ではなく、本当に地球のことも大切にしなければいけない段階にきていると思う。また、年金問題なども大切だけれど、日本人は総じて贅沢しているし、政治も歪んできているから、とりあえずは何も考えずに政権交代は必要だろう。新陳代謝を良くするのは当たり前のことで、自民党も自ら身をひくぐらいの気持ちがなければいけない。同じことをくり返すのは、どんなに素晴らしいことでも良くないのは自然の摂理である。自然の摂理というなら、長期政権は老衰する。時を重ねると美しさを失うから、無いものねだりのスローガン「美しい国」が唱えられるのだろう。もう2度と無理なのに、、、。美しいは、生まれてまもないものに与えられる形容詞なのだ。さもなければ、武士道に照らし合わせ、美しい最期を飾るしかない。生と死において、美しさは最高に輝く。

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 シューベルトの『死と乙女』を聴いている。高校生の時とは全く違う世界が見える。私が年を重ね、シューベルトが作曲した時の年齢を超したことが原因だろう。とは言っても、彼の世界の何10000分の1も見ていないと思うから、これからもくり返し聴く楽しみが残っている。嬉しいなあ。私は極めて浅薄な人間だから、何度聴いても新鮮に楽しめる。演奏は1981年のジュリアード。彼等の世界もまた、とても深い。


2007 7 16(月)
 3週間ぶりにテニススクールへ行った。生徒は私1人だったので、かなり良いレッスンを受けることができた。ボレー、左足や右足の角度、打った後の重心移動、ボールの回転のかけ方などを学んだ。普段使ったことがない筋肉が痛くなった。汗もたくさんかいた。充実した1時間だった。

 夜からは、サッカーをテレビで観戦した。日本が勝った。選手が落ち着いていることと、選手交代でプレイスタイルががらりと変わったことと、意志が伝達し徹底していることが素晴らしかった。普段練習でやっていることを本番でやることの素晴らしさを見せてもらった。いつも通りが1番凄いことも教えてもらった。


2007 7 17(火)
 名大中央図書館で、学生達に混じって本の修正をした。鶴舞図書館とは随分違う雰囲気が漂っていた。22時まで開館しているから、これからも有効に使いたい。自分専用の研究所も欲しいが、一般に解放された雰囲気はそれより大切だと思う。いかなる研究においても隙間や一般社会との接点を完全に遮断してしまっては、ろくな仕事にはならないだろう。


2007 7 18(水)
 午前4時10分、生物学のことを考えながら目覚めた。昔書いていた図版をカラーで夢見ていた。よく考えると、カラーが出現したのは初めてかも知れない。これは画期的なことだ。現実よりもカラーのイメージが強い。カラーがあったのは、私が執筆していた図版上のことだった。自分が書いたものなら、色を主題にして書いたものなら色が想起できるのかも知れない。となると、私は普段、色に全く執着していないことになる。洋服やさまざま物品を購入する時には非常に微妙な色まで気にするのに、、、所詮、日常生活では色に惑わされている、ということだろう。

 夏期長期休業中の旅行が決まりそうだ。とても急に決まりそうだ。行き先もはっきりしていないけれど、それで良いのかも知れない。そもそも自分にとって旅行とはそんなものだし、回り道人生はこんなものだろう。ただ、気候条件だけチェックしておこう。灼熱はダメだ。私は暑さに弱いのだ。

 今朝は2度寝することは無かったものの、だらだらと写真の整理をしているうちに時間をすべて使ってしまった。小さな目標が必要だと思った。やるべきことも、やりたいこともたくさんある。


2007 7 21(土)
 エンジンがかかるまでに100年かかるような有り様だ。これでは良い結果が出るわけが無い。瞬発力、すなわち、加速度を大きくする必要がある。あるいは、ギアチェンジ、あるいは、計画性、小さな小さな目標設定。

平衡状態
※可逆反応において成り立つ場合がある。
※上記の2つの反応速度が等しくなった状態を平衡状態という。
順反応 生成物 → 反応物
逆反応 反応物 → 生成物

※生成物と反応物の組成比が一定になる状態を平衡状態という。

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展覧会
1 情報の流れが、一方的(示す、説明する)
2 相手を理解させることが目的なので、対話することが無い。
3 ただし、その最終的な解釈は相手に委ねられている。

教師の利己的な土俵にならないための自戒。
そのためには教師自身が楽しむ。


2007 7 22(日)〜23(月)
長野県 焼岳


2007 7 26(木)
 今日もまた、地下鉄構内でたくさん仕事をした。駅員に変な目で見られ続けたけれど、冷静に考えると、地下鉄構内に長時間居座ることは良くないことだ。公共のある空間を占有し、しかも、その目的が本来の目的と違うのだから、私は社会人として悪いことをしている。うーん、困った結論に達した。しかし、これでは自分にとって最良な環境の1つを失うことになるので、何らかのへ理屈を考えることにしよう。正しいことだけでは生きていけない。適切なバランスを考えながら、今は生きるための新しい方法を生み出すしかない。

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 視力が非常に良く、感受性が豊かで、嗅覚が弱い哲学的な人と話をする機会に恵まれた。彼女は新しい生命が芽吹く春の季節が嫌いだった、と言う。なぜなら、高い梢にある葉の一枚一枚の葉脈と、それを透過してくる太陽の光が眩しいからだ。常人の目には見えない1本1本までが見えるとしたら、それが気持ち悪いものであることは容易に想像できる。動物の血管と同じとは、、、。私のような視力が弱い者は、よく見える者に教えてもわなければ分からないことだ。また、大地から芽吹く雑草の芽も、その1つ1つの幼い色、産毛、さらに細かいディテールが見えてしまうの気持ち悪いことだろう。

 一般に、視力が良い人は同様な世界に住んでいる。私は視力が弱いから、ぼやっとした世界に住んでいるし、だからこそ、カメラや顕微鏡のような自分の眼球に頼らない世界が好きになるのかも知れない。絵画もその延長線上なのだろう。それにして、異常に視力が良いということは、私にとっては憧れの対象だ。幼い時の私は、そのような現実世界に住んでいたのかも知れないけれど、全て忘れてしまった。今は、昔の概念や空想や大脳の中で生きているように感じる。

 白は反射光であり、光源ではない。光源に白は無く、白に相当するものは、無色である。それは全てのエネルギーを発散している。


2007 7 27(金)
 中学1年生がこのtakaのメモ帳を読んで楽しんでいる、というから驚きだ。内容をどれだけ理解しているのかは別にして、とにかく嬉しい。ここには、現在の私と近未来の私があるから、感性豊かな読者は、私の1歩先を歩むことになるだろう。私が45年かけて得たものを、君に惜しみなく与えよう。それが私のDNAだ。

 それから、昨日仕入れた情報によると、太陽が爆発する50億年後よりも早い30億年後には、地球上からは確実に液体の水が失われるから、現存する生物は全て絶滅するだけで無く、現在考えられている生命現象は全てなくなる。つまり、DNAという物質なくなる(絶滅する)。その後には宇宙の意志や法則のようなものが残ると思われるが、今の私には興味が無い。それよりも、今生きている感覚を研ぎすませることに時間を使いたい。でもまた、これが大変なんだよな。私はいろいろなことを浅く広くやってしまったから、一般的なことでは全然面白く無いし、今以上に1つのことに深く没頭するには膨大な犠牲を強いられるし、、、。今の自分がやりたいことは、かなり自分に対して厳しい。


2007 7 30(月)
テニスレッスン(武内コーチ)
(1)スライス
・ボールは、身体の横で捕らえるようにする。
・ボールがラケット面に乗っている時間を長く感じるようにする。
・ボールは、ネットすれすれを通すようにする。
・そのためには、ボールをたくさん乗せたまま、前に運ぶ必要がある。
・身体はクローズを最後まで保つ。


2007 7 31(火)
 そろそろ人生の折り返し地点に近づいてきている、と書くこともできるけれど、この言葉は、還暦までとっておこう。もちろん、折り返したとしても、何回折り返すかは決めていないから、それは取りあえず1つの折り返しをしたところで方針を述べることにしょう。

 これは読書と同じようなもので、半分読むと、そこからは一気に進んでしまうようなものなのだろう。そうした意味では、まだ、一気に進むような気配はない。どこが半分なのかも分からない。

テニスレッスン
(1)バックハンドストローク
・ラケット面が地面と垂直になっていることをイメージする。
※現在は、上向きになっていることが多い。
・近づき過ぎることが多いので、軸足を、空振りするんじゃないかな、という距離に置く。
・ボールの斜後ろから入る。
※現在は、横から近づくことが多い。

 

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takaのメモ帳
8 月

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