takaのメモ帳  

2007年 8月


2007 8 1(水)
2:40 起床
 緊張感がない生活を繰り返している。これは大敗した自民党に緊張感がないのと同じだ。もちろん、このだらだら感、目標や目的の欠落は野党も同じなので、私は日本社会の環境に完毒されている考えることができる。これを打開するのは自分しかいないし、私が定期的に海外に脱出するのは、意識下であったとはいえ、野生動物としての感覚を確認する行動だったのであろう。野生動物とは、飢えた動物、立ち向かうことができない自然の大きさを知っている動物である。したがって、海外に、日本と同じような生活や環境を持ち込むことは私にとって意味がない。今回計画しているモンゴル旅行の参考としよう。

 幸せぼけ、というか、毎日の寝食に困らない生活をしているから、こうなる。もっと毎日が追い詰められていなければ、ならないだろう。不知の病を宣告されるから生き甲斐を見つけだし、燃え上がる人々を見習う必要がある。巷の書店でも、このような書物がよく見かけるようになった。

 モンゴルで学ぶことは、遊牧民族の文化であろう。これは全く知らない。書物では、いくつかの事柄を学んだが、実体験が皆無なので私の言葉で語ることができない。今回は、遊牧によって生活する人々の生活を垣間見ることで、自分なりの考察をすることが第1の目標だ。

 ジンギスカンやフビライハンについては、現在のところ、あまり興味はないが、彼らと同じように馬を自在に操ってみたい。しかし、それは一朝一夕には無理なので、自在に操る人々をこの目で拝見させて頂く。さて、モンゴル帝国を築いた彼らにとって、人民という呼び名でひと括りにできる人々は、集団生活をする大型草食動物のようなものだったと思われる。彼らは、自分の家畜を大切にすると同じように、人民の数を増やしていったに過ぎないのではないか、と予想している。野生の馬も家畜にすることができるし、すべての動物はもともと野生だったことを忘れていはいけない。家畜がそれで幸せなら、それはそれで仕方ないのかも知れない。同様に、私も自分で意識しないうちに家畜としての生活をしている。であるから、時々脱走する。

 話がどんどん逸れていくが、元冦(げんこう。1274年文永の役、1281年弘安の役)における日本軍の動きについても考えてみたい。ただ、私は歴史家ではないから、不適切な表現がさらに増えると思うので、十分に注意したい。現在持っている雑感は、為政者の第1目的は自分達の階級を安定させることにある、ということだ。優れて為政者は自分で新しい階級をつくり出すことになるので、それが社会的動物の歴史、人類の歴史ということになるのだろう。

 為政者が、自分が望む社会的位置を確保する手段も同じようにさまざまで、時には流血、時には平和的な手段となる。本来、目的を達成するために、他人を不幸にする必要はないし、むしろ、人民を幸せにすることを第1の目的とするような階級を創設し、そこに位置することを望む為政者も歴史上存在したと思われる。世界に目を転ずれば、そのような政治家は何人もいる。

4:15
 またまた、ふと気づくと大量の時間を使ってしまった。
4:40
 文章を軽く読み直すと、また大量の時間を使ってしまった。でも、読者がそれで時間を得するなら、それで良い。

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 代表勤務。電話番のようなもので、学校にかかってくる電話の7〜8割に応対する。したがって、私でなくても十分にできる仕事である。ただし、現在の学校は、代表勤務者の自主性にまかせるところが大きいので、気持ち良く電話番をしている。たまには電話番も悪くないし、私は頭を使わない仕事を嫌わない。

 また、勤務時間中には、新しく購入した偏光顕微鏡の操作を繰り返し練習した。この顕微鏡には慣れていないから、時間をかけて何回も練習する必要がある。さもなければ、授業でおろおろしたり、生徒からの質問に対して不適切な答えをしてしまうからだ。今日は良いチャンスと考え、8時間にわたり説明書を読んだり、岩石プレパラートンの点検、典型的な岩石標本の撮影を行なった。

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19:00 テニススクール
 今日は私よりレベルが高い人達のグループで練習できたので、コーチのアドバイスは一切なかったけれど、大いに練習になった。試合をやっても緊張感が全く違うし、全力で戦ってもまけることが分かっているのはとても嬉しい。ただし、今回は勝ってしまった。パートナーが良かったと思う。


2007 8 2(木)
2:55 起床
 クリエイターのための本を読みはじめた。クリエイターたるもの、自分が創作したものに対しては責任を持たなければならないということが書いてあった。私は権利を放棄することは悪くないと思っていたけれど、権利と義務は放棄してはいけないことを知った。それらは切り離すことができない関係にあるのだろう。もう少し、読み込んで勉強する必要がある。

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 現在の課題は、時代をクリエイトしてきたさま様々な分野の業績を知ることだ。これは「過去」の仕事を勉強することであるが、本当にクリエイトな考え方は時間によって輝きを失うことはなく、むしろ、時代によって新しい光を当てられ、創造されてた当時よりも凄い輝きを放つ。そのような仕事を1つでも多く学び、吸収することが今の課題だ。具体的には、自然科学に関すること、絵画と写真に関することを研究している。それと同時に、自分が執筆した自然科学の本の独自性を客観的に分析して次の創作物の方針を決めたり、あるいは、自分のクロッキーと写真、および、その他HPにおける発表活動の独自性と創造性について考えを集約したりしよう。

テニスレッスン
(1)サーブ
・トスアップは、親指と人さし指の2本で行なう。
・2本の指ならボールを回転させることはできないから、無回転になるはずだ。
・中指は、ボールを軽くのせるようにする。
・トスアップした左腕は、耳につくように。
トスアップした左手は、ボールと一緒の視界に入れておく。そうすることで、ボールの位置(距離、方向)が正確に分かる。
・右手のグリップは、コンチネンタルになるように、毎回確認する。
・ラケットは、地面と垂直にして、軽く握手するように握る。
・サーブのグリップは、その他のグリップと違うことを意識する(現在のところは、です!)。
・スライスをかけるなら、ボールの右側を擦ることをイメージする。
擦っている時間を長く感じるようにする。
・左足の先端は打つ方向に向け、右足の内側はエンドラインと平行にする。
(ただし、足の位置はコーチよって指導内容が異なる。ボールを打つ方向と、左右の足の先端を結んだ延長線上を一致させるように、指導するコーチが多い。この場合、左足のアウトサイドとエンドラインが作る角度は45度程度になる。ただし、エンドラインと平行になることはあり得ない。)
・サーブを打つ時、まず、身体を打ちたい方向と直覚になるように立ち、次に、ラケット持ち方を確認する。

(2)フォアハンドストローク
・左腕をしっかり伸ばして、ボールを掴みにいく。
※現在はまがっている。
・右腕を引き過ぎない。
※現在は、右手を同じように曲ったまま引き過ぎている。
・左手でボールが掴める位置に来たら、ラケットで打つ。
・左腕は、打った後に折り畳む。
・右腕は、しっかり振り抜く。


2007 8 3(金)
・全校出校日

18:50 クロッキー
21:00 二次会
 夕方から風呂に入って、準備している人は強いと思った。参りました。


2007 8 4(土)
9:00 テニス
 毎日、屋外で仕事をしている人は強い。それに引き換え、私は20分でばててしまう。


2007 8 5(日)
 名大図書館で、書籍(酒井佐保の熱学教科書 吉田善一著 2007年3月 冨山房インターナショナル)の参考にしながら、熱学のごく一部を自分の視点でまとめた。※文章表現は、多くの自然科学者によって言われているものか、私のオリジナルのものなので、このまま利用しても良い。以下にまとめるにあたっては、物質を構成する原子を3つの種類(金属、非金属、希ガス)に分け、また、分子(非金属原子どうしが結合したもの)と金属(金属原子どうしが結合したもの)を意識的に区別し、再分類した。その一方、粒子(原子、原子の集まり)については熱よって再統一した。この書物の優れた点は、実験を通して初級者にも分かりやすい表現でまとめたことである。これは私の実践教科書にも大いに通じるものがある。また、美しい実験図版は、それだけで熱学の世界に人々を誘う力を持っている。

古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ。 (松尾芭蕉)

実際には@@の影響があるので、いくらか補正する必要がある。 (参考文献に良く見られる表現)

熱は、物質を構成する目に見えない粒子(分子や原子)の運動エネルギーである。
・2つの物体(固体)をこすり合わせる力学的な運動エネルギーによる仕事は、2つの物体を構成する粒子(原子や分子)の運動エネルギー(ただし、力学的な運動エネルギーとは異なり、正しくは分子運動、あるいは、内部エネルギーという)に変わる。これは、表面的には、運動エネルギーが熱エネルギーに変わる自然現象である。さらに言い換えれば、仕事が熱エネルギーになることであり、熱を起こす仕事そのものでもある。
・逆に、物質を構成する粒子の運動エネルギーを使って、熱を発生させたり、他のエネルギーに変換することもできる。例として、蒸気機関、風量発電、大気の対流。
・運動エネルギーだけの問題として考えるなら、エネルギー保存の法則によりエネルギーの総量は変化しないので、マクロレベルな(目に見える)運動エネルギーがミクロレベルの(目に見えない)運動エネルギーに変換されたと考えることができる。

どんな物質でも、粒子レベルでは運動エネルギー(熱)を持って振動したり、動いたりしている。
・冷たい物質の運動エネルギーは小さく、熱い物質のエネルギーは大きい。
・冷たい物質に触ると、手を構成する物質の粒子の運動エネルギーが移動し、冷たくなる。

生物学的には、皮膚は物質を構成する粒子の運動ネルギーを感じることができる。
・冷点や温点は、実際、粒子レベルの運動エネルギーを測定しているのであろう(要確認)。
・生物(ヒト)の立場から温度を測定する意味は、生命活動を行うためであり、エネルギーを獲得するためである。それならば、低温よりも高温の方が良いに決まっている。なぜなら、通常、体温を維持するためにエネルギーを必要とするからである。したがって、寒い地方に生活する生物は、体温維持のために脂肪をたくわえる。

潜熱:融解熱(固体と液体)と蒸発熱(液体と気体)
・粒子の運動エネルギーではなく、物質の状態変化に使われる熱を、潜熱という。
・正確な0℃が欲しいなら、氷が存在する水(温度が上昇するとき)、あるいは、水が存在する氷(温度が下降するとき)を用意すれば良い。

沸点は、液体の表面の大気圧によって大きく変動する。
・山に登ると、圧力をかけないと水の沸点は100℃以上にならない。
・水の沸点については、それを求める公式がある。

物体に熱を加えると体積変化が増加(膨張)することは、物質を構成する粒子間の距離が大きくなることから説明できる。
・粒子間の距離が大きくなると、それぞれの粒子が互いに引き合う力(分子間力など)は小さくなる。
・粒子間の力が小さくなると、粒子は自由に動くよう(液体)になり、さらに、1粒ずつが完全にバラバラ(気体)になる。
・物質の3態における膨張係数は、固体 < 液体 < 気体。それぞれの桁の違いは100倍、@@倍であるが、固体状態については金属(金属結合、常温で固体であるもの)の物質、液体については分子(共有結合、非金属原子どうしの結合、常温で液体または気体であるもの)について記述してある書物がほどんどなので、私自身の新しい解釈を加える必要があるかも知れない。

※気体の圧力に関する以下のボイル・シャルルの法則を中学で扱うことは不適切である可能性が高い。むしろ、気体に圧力をかけると液化したり、温度が変化することから粒子の位置や運動状態をイメージさせる方が大切であると感じている。
シャルルの法則:気体の膨張係数はだいたい同じである。

・気体が熱によって膨張することは、固体や液体と同じである。
・圧力が一定なら、気体の体積は温度に比例する。
・これは1つ1つの分子の距離が離れているので、それらの間に働く相互作用を考える必要がないことを意味する。分子や原子の個性を無視できることを意味する。

ボイルの法則:気体の体積は、圧力に反比例する(1662年、ロバート・ボイル)。
・一般に固体にみられる弾性という性質を、気体(流体)に応用した考えである。
・液体がもつ弾性については、今後調べること!

ボイル・シャルルの法則から、アボガドロの法則へ
・2種類の気体があり、それらの温度と圧力が同じなら、その中にある粒子の数は等しい。

ボイル・シャルルの法則
・圧力×体積 = 絶対温度×定数、あるいは、圧力×体積÷絶対温度 = 一定

アボガドロの法則
・1モルの気体には、602 000 000 000 000 000 000 000個の粒子が含まれる。
・この個数は、気体の種類に関係しない。

温度計は、熱による液体(水銀、アルコール)の体積変化、つまり、粒子の運動エネルギーの量の変化に基づく。
・液体の体積変化を利用した温度計は、粒子間の距離を示す。
・また、液体と同じように気体温度計も存在する。気体は液体より変化量が大きいので、精密である。
・現在の温度計は、電熱対(2種類の導体の一端を接続したもので、熱起電力を発生させる。熱起電力は気温によって変化する)を使う。

固体や液体を圧縮することは難しく、また、熱よる膨張を食い止めることも難しい。
・鉄道の鉄でできたレールの継ぎ目。
・バイメタル(2種類の金属を張り合わせたもので、鉄と銅をはりつけたものが有名。冷やすと銅が内側、温めると鉄が内側になるのは、それぞれの膨張係数が違うことが原因である)

比熱:ある物質の温度を1K(1℃)上げるのに必要な熱量(単位:cal/K・g0000)
・熱容量:ある物体(質量は任意)の温度を1K上げるのに必要な熱量(単位:cal)
(単位をcalかJにするかは、十分に検討すること!)
・温度を下げる時には、同じ熱量を放出する。
・水1gの温度を1℃上げるのに必要な熱容量を1calという。
・水に比熱は1であるが、これはずば抜けて大きな値である。

 帰り道、水性生物を販売している店を訪ねた。癒し系の生物を購入しようとしたが、あいにくの休日でヒトがいっぱいだった。

ヒトの特性を2次元の『時間軸』から分析する方法

 ヒトの特性は、量子力学の「ひずみ」の概念によって、うまく説明できます。

 まず、あるヒトの環境要因を質点とします。この質点は、重力場のような「ゆがみ(歪み)」が生じるので、ヒトは歪みの方向に動きます。つまり、環境によって動かされます。

 その動きは、動いている本人から見れば直線(当然のこと)なのに、静止している人から見ると大きく歪んだ曲線(不自然なこと、間違ったこと、異様なこと)になります。歪みが大きければ、脱出できないブラックホールのようになります。このブラックホールは、ホワイトホールと繋がっているとも考えられます。

 さらに、この質点を時間軸に載せれば、否、その逆で、時間軸の周囲に環境という重力場を配置すれば、ほぼ完璧な説明になると思います。ただし、単純な時間軸の考えは、早々に廃棄しなければないと感じています。とりあえず、第1段階の説明としては有効ですが、、


2007 8 6(月)
4:10 起床
 満足できることはほとんどないから、初めから満足できないことを強く意識することが大切だ。もし、何かを発表するなら、与えられた環境と時間の範囲で、不十分なまま満足できないまま手放すことが求められる。常に満ち足りないまま時代は移り変わる。今日もまた、不完全なものを発表する。それが私の仕事だ。

テニスレッスン(浦田コーチ)
(1)ストローク
重心が前後左右に振れないようにする。
・重心は丹田(たんでん)にあり。
・重心を保ったまま、前に振り抜く。
・打ち終わってからも、重心が振れないようにする。

(2)ボレー
・重心が前後左右に振れないようにする。
重心を軸足にしっかり乗せてから、踏み込む
・ラケット面は、ボールと直角になるようにする。
・ラケット面は、身体の右斜前にセットしする。
・踏み込み足は、軸足とラケット面のセットが終わってから踏み出す。
・踏み込んだ時、背中がセンターラインに平行になることをイメージする。
・ボールを飛ばす方向は、踏み込み足のインサイドと一致させる。
・インパクトの瞬間だけ、ラケットを強く握る。
・バックハンドボレーは、打ち終わった後も、相手に背中が完全に向いているようにすると、打点が前になる。
・完全に打ち終わったら、正面を向く。

(3)ローボレー
・ラット面は、ボールの下に入れる。
・重心が前後左右に振れないようにする。
※自分としては、普通のボレーよりも得意なのだ!

(4)サーブ
・重心が前後左右に振れないようにする。
・両足を肩幅に開く(あまり開かない)。
・トスしたら、軽く重心を落とす(膝を曲げる)。
※膝を曲げ過ぎているのは、曲げることが目的になっているからである。
・膝を曲げることをイメージしない方が良い(丹田の位置をイメージする)。
・ラケットは、先端の重さを感じるように打つ。
・サーブが入らない時は、まず、重心が前後左右に振れてないかチェックする。

(5)試 合
・簡単に打てそうなボールでも、足を細かく動かして、軸足を最適なポジションにする。
・ファーストサーブを入れることが、相手にとって脅威となるので、弱くても入れるようにする。



2007 8 7(火)
0:25 起床

 うーん、早朝より何をしているかと思えば、かれこれ2時間もテニスの研究をしている。研究と言えばかっこいいが、これはまだまだ初心者の域と超えたかどうかのレベルなので、おさらい、という表現が適切であろう。クーラーの室温を22℃にしてあるので、いい加減寒くなってきた。

 最近、ショッピングすることが多い。これは欲求不満が原因であることが分かっているので、ほどほどにしなければいけない。本当に欲しいものは物ではないし、金で買えるわけがない。金で精神を満たせるなら、そんなに簡単なことはないだろう。また、精神と物が一致しているなら、物と得るための努力は非常に簡単だ。ただし、世の中の多くの人は、目的とする物が手に入れた後も、不要なものを手に入れてしまうことが多い。つまり、一旦、物を得る手段を身につけた人は、単純に同じことを繰り返すだけで、同じものを手に入れることができるからだ。そして、人は物によって腐敗する。私は、十分に注意しよう。一般にケチと言われたり変人と言われることが大切だ。また、物をねだるような人物には近づかないようにしよう。

勝負ごと
 ヒトのあらゆる活動は、芸術から科学にいたるまで勝負の世界にある。例えば、音楽界や絵画界や文学界のコンクールで優勝すれば、一躍有名になり、活動範囲が飛躍的に広がる。ノーベル賞をもらったり、スポーツで優勝することも同じ結果をもたらす。しかし、勝負を決めるのは最終的に人間だから、本来の活動目的とは違う基準によって勝敗をきめる八百長が行なわれることも否定できない。

 私は勝負事が嫌いだ。勝負の判定を他人に任せるというのが気に入らない。明確なルールがあるように思うスポーツの世界においても、高いレベルになるほど、僅かな判定ミスで勝敗が決まるようになる。もちろん、明らかな実力差があるなら別であるが、そのような試合は観戦していても面白くない。また、明確な判断基準を示すことができない芸術や文化に関する勝敗は分かり難いことが多すぎる。多くの耳が肥えた観衆がいる音楽コンクールにおいても、不公平を感じる判断は尽きることがない。

 さて、今回のメモの骨子は、これまでの自分は勝負を避けてきたし、勝負をするにしてもその相手を自分に求めてきたが、その方針を変更しても悪くない、ということだ。このように書いても、自分は他人と勝負するつもりはないが、悪いことではないことが理解できた。つまり、もし、いろいろな分野のさまざまな種類のコンクールで優勝し続けることができるなら、それは本当に凄いことであり、縦横ナナメの時空間において存在するものであると判断できるからである。また、ライバルという競争相手は、自分を切磋琢磨するには大変都合がよい存在であり、自分の位置をより明確にするために役立つ。

 また、勝つためにモラルは必要無い。もちろん、モラルがないと避難されることによって「何か」に負けたなら、それは勝ったことにならない。勝負は勝てば良いのだから、その「何か」にも勝てばよい。目的は勝つことだから、その他を考える必要はない。必要があるなら、それも勝負事として勝てばよい。これは極論ではない。一般に汚い、と批難されるような行為であってもよい。あなたがルールとモラルを明確に区別し、ルールを厳守した上で勝ったなら、それを避難する方が間違っている。勝負は新しい手段を工夫することでもあるので、「手段を選ばない」と言われた方が優れているのだ。

 さらに、勝負ごとのルールを守ることは当然のように思うが、ルールも自分で変更できる。実際、人間社会のルールを新しく作ることを仕事する人を政治家という。ただ、政治家の多くは「法のもとの平等」を盾にして、不平等な法を作り、結果として「不平等を法的におしつける」ので、私は政治家が嫌いである。同じように、自分が都合のよいようにルールを変更することは、スポーツの世界でも度々行なわれてきた(例:スキーのジャンプ。水泳の潜水)

 このように考えてくると、自分も政治家になって法律を作るのも楽しいと思う。私が政治家になれば、もう少し平等な法律を作れるのではないかと考えているが、私が作るなら、かなり平和的で禁欲的なものになるので、強欲な人々や怠慢な人々には受け入れてもらえないと思う。となると、当選するのは難しいなあ。

17:30 テニス(堤スクール)
 いろいろよけいなことを考えてしまって、良くなかった。でも、勝負にこだわらず自分の技術が向上するように工夫したり、皆と楽しくテニスができるように努力したから僕は満足している。この2つを両立できるなら、3つめの勝利は決して必要無い。むしろ、前者2つを目的にするだけでも欲張り過ぎだと思っている。



2007 8 8(水)
3:05 起床

 今日もたくさんの買い物をした。その中に、i-podがある。80Gもあるから、データの保管にも使うことができる。ただ、接続がUSBなので転送速度に大きな難点がある。音楽データを扱うのが適切なのだろう。


2007 8 9(木)
18:50 クロッキー
21:00 二次会

 万物は何かの犠牲に上に存在すると仮定しよう。すると、今の自分は自分内部にある自分の一部分の犠牲の上に存在しているとも言える。これは、とても気楽になる考え方だ。自己内部において、弱肉強食や勝負の世界を実現させればよいのだ。そもそも、一瞬一瞬がそのような判断の連続とも言える。一瞬一瞬とはいえないまでも、分単位、時間単位、日単位、年単位の犠牲までなら十分に気楽だ。自己内部の犠牲とは、あくまで自分が納得したものであり、その犠牲の上に自分が望むものが立脚してるのだから、不平不満が出ることはあるまい。

 また、完成・未完成という判断基準を持たないという視点を再確認したい。


2007 8 10(金)
 税務署で確定申告に関する説明を聞いた。3人の人と話をすることになったが、説明のタッチが3者とも全く異なる。嫌味な感じ、丁寧だけれどほとんど知らない(勤務して数日)、良く知っていて丁寧、であった。もし、初めに嫌味な感じで説明を受けたら、税務署は嫌いになっていたと思うけれど、私の税務署に関する印象は良い。なぜなら、昨年夏、初めて相談したときの職員が良い感じだったからである。このときの話は役に立たないことが多かったけれど、親身になって話をしてくれたから、また相談に来たのである。公務員だから、という訳ではないが、役所に対するイメージは第1印象で決まるから、公務員の私も気をつけなければならない。とくに、1対1で話をする場合は気をつけたい。初心者の相手は、何も知らない故に、思い掛けない深い部分を読み取るものだ。

18:00 アビリティー


2007 8 11(土)
4:05 起床 

 もう少し早く起きたつもりが4時になっていた。モンゴル旅行モードになりつつあるが、いつものように問題は撮影機材である。人物の色ならフジであるが、古いマックおよびiPodで不可能なのだ。結果としてニコンD200になりそうな気配であるが、確定はしていない。そもそも、D200のボディーを最近見ていないので、どこにあるのだろう。困ったなあ。

最近読んだ本:
肖像写真 多木浩二著 2007年7月 岩波新書
 3つの異なる時代に活躍した3人の写真家ナダール、ザンダー、アヴェンドンを比較・分析し、写真と人間社会について論じている。彼らはそれぞれ時代を代表する写真家なので時代の最先端を走り、新しい時代を築いてきたのだが、未来である現在から振返ると、彼らの活動は「その時代そのもの」であることに気づく。ここから私が思うことは、写真という機材、表現方法さえも「ある時代」の中でしか存在し得ないことだ。例えば、縄文時代において最新の道具であった「ヤジリ」は、現在においては、その時代を示す化石、あるいは、博物的美術的な価値を持っているだけであり、最新ツールとして存在していない。もはや永遠に不可能である。同様なことは、携帯電話、iPod、HP、最新のテニスラケット(初期の木製ラケットと比較せよ)などにおいても言える。人は、どれだけ頑張っても時代という縛りの中で活動しているのであり、最新かつ革新的な活動のみが、人類の歴史(過去)として刻まれることになる。さて、次に考察することは、未来と過去、および、現在と最新について、さらに、時代を無視した活動についてである。

最近読んだ本:
魚のウロコのはなし 吉冨友恭著 2007年4月 成山堂書店
 うろこ、という言葉は良く耳にする言葉である。そして、比較的親しみを感じる言葉である。しかし、ウロコの生物学上の定義はない。おそらく、動物、体表面をおおう小片、外骨格、カルシウムを含むもの、などの語句から定義されるだろう。具体的には、魚類、は虫類、恐竜、鳥類やほ乳類の脚などに見られる。うろこは日常で使われる言葉で、鱗の形状や特徴を連想させるものに多く使われる。


2007 8 12(日)

 最近は抵抗力や我慢強さがなくなってきて、自分の弱さを曝け出すようになってきた。これまでは、不本意なことでも「いいよ、いいよ」と受け流し、いい加減な奴だと思われても我慢できたが、最近は自分の感情を出したり、考えを主張するようになってしまった。これが良いことか悪いことかは別にして、自分が新しい時代に突入したのだと思う。その結果、他人と衝突することも発生するし、衝突した結果、教えてもらうものも失う。しかし、自分が他人に教える時代に入ったのだとしたら、それを受け入れるしかない。

 それから、10年ぐらい前から少しずつ始まったことであるが、最近は、嫌いな人をはっきりと嫌いと認識できる。これは、凄いことだ。逆に言うと、好きな人もはっきりと認識できるということなのだから、、、。


2007 8 13(月)
2:25 起床
 昨夜コンビニで購入したドリアを、ちんして食べる。予想に反してまずい。朝から不味いものを食べるのは辛いが、そのへんのレストランで出される料理も同じようなものだ(ちなみに、昨日のレストランのハンバーグには鶏の脚の腱が入っていた。つまり、鶏の屑肉が入っているのだから冗談じゃない。鶏入りハンバーグと書いておいて欲しい。もしかしたら、魚類の屑肉もミンチにして混ぜてあったかも知れない。それで1280円とは、税務署へ差し出す税金の非ではない)。それを冷凍保存して全国に配達し調理(レンジでちんなど)する。

 ここで、自分の行きつけの店の料理を振返ってみると、冷凍食品が少ないことに気づく。いくつかの素材は冷凍であるが、一般家庭で作られる料理と同じか、それ以上に材料は新鮮なものを使っている。その結果として、素材の味を感じることになる。とはいっても、1食450円から850円までに押さえてあるから、ものすごい美味しいとは言えない。本当に美味しいものは、素材を良く見きわめて自分で暢達、料理するしかない。あるいは、もう少しお金を払うしかないと思うが、毎日そのような店に行くことは時間的にも金銭的にも無理である。

 時間と空間が切り離せないように、時間と金、空間と金も切り離せない。すると、『時空金(じくうきん)』という新しい概念がうまれる。この概念と言葉は私の創作物だから、勝手に使わないでおくれよ。たった今、思いついたことだけど、、、。

 時空金は、物理学的『時空間』と人間社会学的『金』が切り離せないことを意味する。これまでの私生活を反省すると、私は時間ばかりに気をとられていたが、空間と金も同様に大切にする必要がある。とくに、ないがしろにさせているのは空間なので、もう少し快適な空間を準備したい。現在は、あまりに自分に相応しくない。自分以上の空間を求める必要は決してないが、身分不相応はさらに良くない。もう少し検討する必要がある。同じように、自分が働く職場空間も再検討する必要がある。

 そもそも自分が教員をしていることが相応しくない。自分の能力をほとんど出し切っていない。空間を変える必要があるとすれば、それはまっ先に職場だ。これまでに私は、何回も転勤を希望してきたけれど、希望が聞き入れられたことは1度しかない。その1度の行き先に関する事実と意見については、ここではその一切を差し控えるが、とにかく自分に相応しくないことは間違いない。私は家賃2万8000円の空間で寝起きしているが、この空間の方がはるかに私に相応しい。また、空間は自分で作るものであって、他人から与えられるものではない。

 自分が高校生のときに書いていた日記『時間との戦い』はまさに時間との戦いであったが、今日ここに『空間との戦い』と『金との戦い』を追加しよう。そして、それらを統合した『時空金との戦い』を始めなければならない。そして、その戦いの先にあるものを求めよう。

 次に、戦いについて少しだけ考察する。戦いとはすなわち、生きることに他ならない。平和的に生きていくことは生物学的に不可能である。社会的・精神的には可能であっても、自然科学的には不可能だ。いかなる平和も、視点をかえれば戦いの積み重ねによって構成されている。したがって、平和と戦いを区別することがそもそも間違いなのであって、生きる、という概念で置き換えれば良いと思う。政治家も、平和という言葉ではなく、生きるという言葉を使えばよい。また、私は戦争は大嫌いで、自分の信条・考えによって他人を殺害することは考えられない。例え、相手が自分の信条にしたがって私を殺害しようとしても、私は同じ行為をしない。それが、私の生きる方法であり、生きているという行為である。


2007 8 14(火)〜28(火)

モンゴルへ調査旅行


2007 8 29(水)
2:30 起床
 日本ではさまざまな事件が起きていた。これは情報網が発達していること、他人の生活を気にするだけのゆとりがあることが原因だろう。さほどのゆとりない私は、世間の事件などに振り回されないしっかりとした考えと信念に基づいて生きなければいけないと思う。

 モンゴルでの旅についての感想は、旅行記に記述する予定だが、このページは日々私の変化する気持ちを綴る。

モンゴル note1
 昨夜、いきつけの店の定食を食べ、本当に美味しいと思った。第1に食品が腐敗してないこと、第2に食用油が新鮮なことが嬉しい。それに伴い、食欲が湧くこと、下痢の心配をしなくて良いこと、生理的な拒否反応が起きないことが嬉しい。とくに羊は避けたい。少しでもいたんだ羊の脂は絶対にダメだ。体内の全ての消化器官が萎縮し、まるで抗原抗体反応をするかのように全身が反応するので危険だ。回復のためには少し時間が必要であり、生理的な拒否反応がなくなるまでは、正確にモンゴルを見つめることはできないだろう。

8:15 出勤

夕刻 アップル
 iWebのレッスンを受けた。かなりできるようになったと思うが、実際、自分1人で作ってみないとどうなるか分からない。さまざまな問題点が発生するだろう。人は、より快適な環境を求めるために努力する。


2007 8 30(木)
6:00 起床
 頭の中のやりたいことと身体がやりたいことが一致していない。だから、こんなに遅い時間に目覚めることになる。この打開策をみつけなれば、同じ失敗の繰り返しだ。どうしたら良いのだろう。まず、締め切りや外圧を作ろう。

 大学での私は自然を研究をしていた。これを人間社会を対象とする学問と比較すると、自分1人だけの孤独な活動が中心となる。もとろん、たくさんの人々とチームを組んで行なう研究もあるが、私はそれほどまでの能力も環境もなかった。そして、1年間全力で取り組んだ結果として、自然科学者になることは、自分に適さないことが明確になった。しかし、その他のどんな活動がより適しているかは不明なままだった。

 卒業後、すぐに教職についた。これは、人間との関わりの中心とする活動であるが、激流の渦に放り込まれたようだった。大学での環境との違いに戸惑い、自分を見失うのに十分だった。しかし、大人の公務員としての責任を全うする必要から、ほとんど全ての時間を注ぎ込む必要があった。

 現在の問題点は、次の通りである。
(1)孤独な研究者として研究する楽しみを知っていること。
(2)チームを組む仲間を求める努力をしようとしないこと。
(3)自然科学にさほど関心がないが、一般から見てある程度の知識を持っていること。
(4)新しい活動の場を求めようとしないこと。

モンゴル note2
 昨夜はお好み焼きを食べ、その中に豚肉が入っていたが、食べることができた。しばらく肉は食えない、思っていたけれど身体は受けつけているようだ。精神的なダメージだけを克服すれば良いことが分かってきた。また、原因不明だった下痢も完治しているようだ。身体からヒツジや腐敗したヒツジ肉、脂の臭いが消えている。

 朝青龍は、私と入れ替えにモンゴルに旅立ったようだ。


2007 8 31(金)
 夏期休業の最終日。

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