takaのメモ帳  

2007年 11月


2007 11 1(木)
7:10 起床
 仕事たくさんを放置したまま新しい朝が始まった。

中日ドラゴンズ、日本シリーズ優勝おめでとう! 地元の球団が勝って、とても嬉しい。落合監督もよく頑張ったと思う。しかし、山井投手を途中交代させたことだけは頂けない。例えそれが定石だったとしても、、、、と書きたいところだが、よくよく頭を冷やせば、もっと大きな目標は日本1なのだから、その夢を達成するためにはそれに匹敵するような大きな犠牲が必要なのだ。その大きな犠牲を払って、最大の目標を達成した落合監督は本当に大きな人物だと思う。それが理解できないような者は、現実の厳しさを経験したことがないか、あるいは、小さな目前の出来事に右往左往する小人である。

 注文していたアンプとスピーカーが来た。本気でのめりこんでしまうと大変時間を消費してしまいそうだから、気をつけなければならない。

 ここ1週間、道元の『正法眼蔵』を読んでいる。自分の力量に等しく感じるからだろう、とても楽しい。難解という2文字とは無縁である。とても親しみを感じる。新しい発見の連続ではないが、これまでの自分の活動が間違っていないことを確認できるので、とても安心しながら読んでいる。
 さて、この書物の特徴は、(1)とても分かりやすく丁寧に書かれていること、(2)同じことを何回も言い換え、繰り返していること、(3)腐敗している人々に対して辛らつに批判していること、である。これらを自分の活動と比較すると、私はとても丁寧に教育や指導をするので、この点については道元にひけをとらない。しかし、間違っている人々に対して、間違っていると正面から言うことがないので、この点は改めなければならない。権力や年功序列社会を恐れてはいけない。そして、彼のようにたくさんの著作をしようと思う。私には、それができる環境が整い始めている。


2007 11 2(金)
3:20 起床
 部屋を片付け、掃除をして新しい設備を配置している。それに伴い古いものは処分しなければならない。今ところ、特に処分しなければならないような物は見当たらないが、見えなくなっているだけの可能性があるので視点を変えて見直す必要がある。その視点を模索してみよう。

 仕事は割り切り、心を鬼にして取り組まねばならない。他人に甘えようとするから、自分に対する厳しさが失われ、その結果として他人に厳しくなってしまう。

 知足。現在、全てのものが満ち足りていることを知ろう。そうすれば、欲望の地獄から抜け出すことができる。私は全てのものが満ち足りている。気づかないだけであり、利用していないだけであり、見えていないだけだ。

 脱線。本来の路線を外れてしまうことを『脱線』と言う。授業や会議の脱線は『違う路線を走ること』をさす。本来の目的地を目指している乗客にとっては、脱線した列車は、そこで転倒したままになっているほうが幸いである。しかし、脱線した運転手は水を得た魚のように、自分が得意とする方面へと走っていく。ああ、また走り始めたか、と乗客は嘆く。とくに、運転手がたくさんいる列車は危険である。くれぐれも、脱線した列車の運転席には座らないようにすることが賢明である。元のレールに戻るように運転しようとしても、脱線を喜ぶ乗客の餌食となる危険性があるからである。賢者は、このような電車に乗ってはいけない。つまり、他人が運転する列車に乗って楽をしようとしてはいけない。初めから、自分で目標を立て、自分でレール(計画)を立て、自分で運転(実践)しなければならない。自分の列車に乗客を乗せる場合は、乗客の意志を十分に確認し、くれぐれも無理矢理乗せないようにする。さらに、人によって目的地は違うから、いつでも降りられるようにしておかなければならない。/ さて、この文章はどんどん脱線しているが、takaのメモ帳の目的は脱線したまま走り続けること(書くこと)なので、結婚について書く。結婚前には2人の目的地をしっかり確認しなければならない。そして、そのための方法も確認しなければならない。とくに、目的地が形而上のこと(幸せ、愛)になっている場合は、具体的な線路を確認しておかないと大変なことになる。されに、最近は男女2人で運転することが多いので、場面に応じた主導権の切り替えを明確にすることも大切になってきている。船頭は基本的に1人で必要十分なのである。船頭と漕ぎ手、というように明確な役割分担することは、共同生活、社会生活をする上で必要である。その上で、多少の得手不得手は優しく見守らなければいけない。

17:10 中華料理
 港区にある中華料理店で、チャーハンと坦々麺を食べた。どちらも旨いが、坦々麺は魚の醤油とニンニクの漬け物の炒めものを使っている。ただし、自分では気づかないうちに、恐ろしい臭いを発生している可能性があるので、できるだけ速やかに臭いを分解するため、地下鉄『上前津』構内のコンビニで牛乳を飲むことを怠ってはいけない。食後30分以内なら、血液中に回ることを防止できる。
 さて、今回、わざわざ中華料理店を記述したのは、前回この店で同じ物を食べた時、財布を忘れてしまって『ツケ』にしてもったことを書きたかったからだ。食事を終え、私が2食分の1400円を出すと、店主の奥さんは『はい、ありがとう』と言って受け取った。私はもっと払いたい気分だったが、「金を出したら彼女の気持ちが台なしになる」と考えた。これは日本民族の特性であるが、世界にはいろいろな民族があって、『金は金、気持ちは気持ち』として区別したり、『金を気持ちで表現する』ような考え方もある。私は中国人が経営する店で、どのような考えに基づいて行動したらよいか迷ったが、結局は『ケチ』な性格を利用して、1400円しか払わなかった。この『ケチ』という性質も日本民族の特性の1つといえる。あれっ、これは名古屋人の特性かな。

 アンプとスピーカーをつないだ。思い描いていたような音は出ないが、これから研究していこう。最高のものは、微妙なところまで調節しなければ得られない。さらにまた、音は、音楽追求のための1つの要素でしかないことを忘れてはならない。さらに、音楽の先にあるものも目標としなければ面白くない。

20:40 テニス
 コーチが3人も付いてくれたので、何も教えてくれなくても十分に得ることは多いのに、個人的なアドバイスも頂いて大変に勉強になった。

バックハンドのストローク
 私の場合は、打つ時の面が、少し上を向いている。自分の位置からボールと垂直に見えても、ボールの位置から見ると上を向いている。この修正は、次の手順で行なう。
(1)右手でげんこつを作る。
(2)げんこつを前に出し、ネットに当てる。
 ※げんこつとネットが平行になるように(げんこつでラケットが握れるように)する。
 ※右手と身体がつくる角度は、自分の好みに合わせる。

(3)げんこつに、最も力が入る位置になるよう自分の位置を調節する。
 ※軸足と踏み込み足の間隔、身体とネットがつくる角度は自分の好みでよいが、私は、自分の背中でセンターラインを感じるように、つまり、センターラインと平行になるようにしたいと思っている。
 ※私の場合は、いつもより打点が前になった。
(4)げんこつにラケットを入れて、握る。
(5)ラケット面が地面と垂直になっているか確認する。
 ※私の場合は、ラケット面が、やや上を向いていた。これはコーチから指摘されるまでわからなかった。つまり、面をそのままにして自分が移動して見て、初めて垂直でないことが分かった。まるで、面が倒れているかのように見える角度で、ちょうど良い。
(6)ここまで出来たら、あとは、右肩を中心に、観覧車のように腕を回せば良い。
 ※私の場合は、打点が近くなり、しかも面が上を向いていたので、右肘を曲げて調節していた。もっと打点を前にすれば、肘を曲げて調節する癖がなくなる。そのためには、面の感覚を正しくすること、打点の距離感覚を正しくして足で距離を調節することが必要である。
(7)玉だし練習では、ネットに引っ掛かることが多くなるが、それでも前に打つようにしていけば、入るようになる。

力を抜いて打つ
 スイングスピードを下げることと、力を抜くことは違います。逆に、力を抜くとスイングスピードが上がり、球が速くなって威力が増します。自分の場合は、スイングスピードの調節に意識がいっているので、力を抜くことに意識を集中させると、いろいろな面で良くなる。とくに、チャンスボールは力を抜くことに専念し、スイングスピードを上げよう。

スライスサーブ
 空に金槌を打つようにする、らしい。


2007 11 3(土)
6:10 起床

 午後から恵那山を目指して出かけるものの、渋滞で停車中に、バックしてきた車にフロントを壊される。相手は、ごめなさいの一言もなく、自分の車が買ったばりだとか、自分は大学教授だとか、君の車が動いていたかどうかは分らないだとか、言う。それらは事実であるけれど、常識からかけ離れた考えを持っているから、何も見ずにバックギアーを入れてアクセルを踏むことができるのだ。このように考えれば、彼の一連の行動は十分に理解できる。常識を持った人は十分に注意しなければならない。私は、そんなことを予想して、事故の一部始終を見ていた渋滞中の人をメモしてあったから大丈夫だけれど。/ こんなことで旅行は中断、あえなく名古屋に帰ってきた。

 文化の日の今日は、岐阜県内の文化施設が無料開放されていた。それらのいくつかを、ゆっくり見学できたことが唯一の慰めだった。


2007 11 4(日)
9:00 テニス
11:30 名大図書館

16:30 鶴舞図書館


2007 11 5(月)
 寝冷えして、カゼを引いてしまった。まったく意味のないことだ。久しぶりの流感なので、無理しないようにしよう。

18:30 クロッキーと撮影
23:00 消灯


2007 11 6(火)
 カゼ2日目。

18:20 クロッキーと撮影
21:00 二次会
 帰りは千種駅まで歩いた。

23:30 消灯


2007 11 7(水)
 カゼ3日目。

19:00 アビリティー
20:00 ダイハツ
21:00 消灯


2007 11 8(木)
4:20 起床
 カゼ4日目。あと3日間の我慢だ。それまでに、新しいウィルスが発病しないように注意しよう。通常より2倍以上ゆっくりしたペースで活動するように心掛けよう。

 正法眼蔵は、ようやく1巻(全8巻)を読み終えた。今は、1巻を読み直している。

魔訶般若波羅蜜(マカ・ハンニャ・ハラミタ)
 観自在菩薩(カンジザイ・ボサツ)が般若を波羅蜜された瞬間、全身によって、『五蘊(ゴウン)が空(クウ)』であることを観じられました。『五蘊(ゴウン)』は次の通りです。

1 色(シキ、外界の現象)
2 受(ジュ、感覚、外界の刺激を受けること)
3 想(ソウ、ぼんやりと想うこと)
4 行(ギョウ、実際に行動すること)
5 識(シキ、はっきりと理解すること)

 これらは5つの般若です。これらは世界の全てを見ることです。また、この般若を達成したときに、観自在菩薩は次のように言われました。

「色即是空(シキソクゼクウ)、空即是色(クウソクゼシキ)」
「色是色(シキゼシキ)、空即空(クウソククウ)」
「これらは百草(ヒャクソウ)であり、万象(バンゾウ)である」

takaの考察
1 般若(ハンニャ)とは何か

 般若は、訳すことができない。般若は般若である、と考えましょう。多くの研究者は、般若を「悟り」や「智恵」として訳していますが、正法眼蔵では、多様な意味に使われています。例えば、「色」「想」「鼻」「味」「法」「集」「浄戒」「般若」「水」「風」「座」などです。これらを統一できる単語がないことは、ざっと眺めるだけで分ります。道元は、これらすべてを独立した『般若』として扱っています。

 般若は、仏の言葉の中で最も尊重すべき言葉の1つなので、私は「般若を訳してはいけない」と考えます。般若は般若であり、日本語訳すべきではありません。これを明確にするため、私は、般若をカタカナ『ハンニャ』で記述することにします。

 → つづき(般若心経の般若と比較する)

takaの考察
2 波羅蜜(ハラミタ)とは何か

 これも訳すことができません。はじめは「達成」や「成就」と訳していましたが、原文を読んでいるうちに、完全に間違っていることような気がしてきました。私自身も違和感があるけれど、ハラミタはハラミタで通そうと思います。なお、ハラミツということもありますが、ハラミタと発音することが多いようなので、私はハラミタを採用します。さらに、どうせ現代の感覚に合わない言葉なのだから、難しい漢字より「カタカナ」を使った方が、仏教が生まれた時の息吹を感じられると思います。

takaの考察
3 五蘊(ゴウン)を5つの連続する段階として、とらえる

 五蘊は、生物学によって、次の5つの段階に分けられます。
ゴウン
五蘊
だんかい
段階
生物学の考え
・例
シキ
外界の刺激
 ・桜の花が咲く。
ジュ
外界刺激を、感覚器官が受け取る。
 ・ピンク色、形、匂い、気温、などを感じる。
ソウ
感覚器官が受け取った刺激を、脳が判断する。
 ・春だな、と想う。
ギョウ
脳の判断より、行動する。
 ・散歩に出かける。
シキ
行動によって、より深い理解へ発展する。
 ・春が来たことを深く理解する。
 繰り返して説明すると、ゴウンは、外界の刺激(色)を受け取り(受)、その内容を判断し(想)、それを確かめるために行動し(行)、行動によってより深く理解することです。ただし、ここで大切なことは、これらの段階は1つの円のように循環していることです。つまり、最終段階で理解したこと(識、シキ)は、第1段階の色(イロ)へつながります。理解(識)によって、外界(色)が変化するのです。

 このようにして、ゴウンは循環するものであり、永遠に止まることなく理解を深めることができるものである、ことが示されています。また、循環することによって、外界の刺激であった(色)が自分(受・想・行・識)と一体化し、分けへだてることができなるのです。

takaの考察
4 色即是空(シキ・ソク・ゼ・クウ)の色

 色即是空という言葉をみると、「色」が特別扱いされているように感じます。しかし、上で説明したように、ゴウンは循環しているので、「色」ではなく「受」を使っても構いません。受即是空です。ただ、受や他の言葉ではピンと来ないので、「色」を選んだものと思われます。しかし、この選択の曖昧さが、私を含めた一般人が混乱する原因になっていると思います。正確には「五蘊(ゴウン)即是空」というべきです。

 次に、色とは何か、もう一度説明しましょう。色は、自然の現象や物質です。形がない自然を『現象』、形がある自然を『物質』、と考えることもできます。ただし、これら自然界の現象や物質は、人間が感じなければ存在しないものとして扱われています。この点については、6 十二入とは何かでも説明します。

takaの考察
5 色即是空(シキ・ソク・ゼ・クウ)の空

 空とは、文字どおり「空(うつ)ろ」と訳せば良い、と思います。うつろ、うつろうもの、で十分です。したがって、色即是空は「全てはうつろう」と訳せます。しかし、ここで重要なのは、どれだけ外界の刺激を受け取り、それを感じ、想い、行動し、認識するか、です。どれだけゴウンを循環させるか、です。「全てが空ろである」ことは、誰でも理解できますが、通りいっぺんの「うつろ」で終わらせては価値がありません。ハンニャといえません。ハラミタしません。観自在菩薩がハンニャをハラミタされた時は、無限ともいえる循環が1つの循環になった瞬間だった、と推測されます。

廃棄されたnote
 段階5で終了するのではなく、段階5は、そのまま次のステップの段階1になることだ。つまり、上の例は、次のように続く。

1 色: 春が来たことを理解した自分がいた。

 これらの段階は簡単だ。誰もが簡単に理解できることだ。しかし、大切なのは、それらをきちんと自分の中で区別し、階段を1つずつ登るようにステップ・アップすることだ。また、上の例でいえば、春が来たことを理解しているのは自分である、と認識することがとても重要である。これらを明確に意識することが悟り(般若)なのだから、悟りはとても身近なところにあり、すでに悟りに達している人もたくさんいる。不遜ながら、私自身もこの意味での悟りには達している。その一方、悟りを開いていない者は、これらが『ごちゃまぜ』になっていたり、他人から押し付けられていたり騙されれたりしている。   2007 nov 10

 次に、五蘊を1つずつ解説します。まず、ハンニャがハラミタする第1段階として、12種類のハンニャがあります。それは「十二入」です。

takaの考察
6 十二入とは何か

 すばり、道元自身、「十二入」をはっきり理解できていなかった可能性があります。少なくとも、この巻では何も述べていません。

 さて、私は「十二入」を『外界の刺激』とします。そして、十二入は色(イロ)である、と考えます。つまり、十二入は、自然界の現象や物質の刺激、です。ここで重要なのは、刺激が身体に入ってくることです。外界の刺激を、生きている人間が感じ取ることです。死んでいたり、何もしないでいたりする人には、刺激が入ってきません。眼をつぶったり耳をふさいだりしていては、何もないのと同じです。この世が存在しているのは、あなたが生きているからであり、あなたが死んでしまえば、この世はお終いです。

 また、十二入は色(シキ)である、という考えることもできます。これを使えば、色即是空は「外界からの刺激はすべてうつろである」「外界からの刺激は、人が死ぬとなくなる」と訳せます。

 最後に、道元が「釈迦の考えや色」について、十分に理解できていなかった可能性について述べます。お釈迦さまがハンニャの第1段階としたことは、色であり、外界の現象や物質です。しかし、ここで大切なのは、外界の刺激が身体に『入る』か、入らないか、です。入るものは全て色(外界の刺激)であり、入らなければ色(外界の刺激)ではありません。

 次に、外界の刺激が12種類に分類できることは、私には理解できません。私は、十二入の『十二』が間違っているとさえ考えています。私が外界の刺激を分類するなら、自然科学者としての立場から「光」「空気の振動」「重力」「加速度」「空気中の化学物質」「溶液中の化学物質」「熱エネルギー」「圧力」「物体の振動」「一般に『痛み』といわれる感覚」「一般に『直感』といわれる感覚」「脳内部における複合してできた感覚」の12種類とします。ただし、最後の感覚は、第5段階の『識』が循環した後に現われる、第6段階としての『色』です。

 また、次の18種類のハンニャがあります。

1 眼と耳と鼻と舌と身と意
2 色と声と香と味と触と法
3 眼と耳と鼻と舌と身と意識など

takaの考察
7 第2段階としての受

 道元は、上記18種類の般若について、理解してなかった可能性があります。彼は、「五蘊の第2段階としての『受』は18種類あり、それらは、3つに細分されます」と記述していると思いますが、私には全く理解できません。私が『受』について記述するなら、次のようにします。『受』は、眼と耳と鼻と舌と身体で行ないます。これらは、外界の刺激を受け取る部分です。

 また、4種類のハンニャ、『苦集滅道(クジュウメツドウ)』があります。

takaの考察
8 第3段階としての想

 この部分は簡単です。受け取った刺激について、頭脳でいろいろ想う(おもう)、ということです。仏教では、この第3段階を『苦』『集』『滅』『道』の4つに分ける、と考えればよいのです。もちろん、それぞれの詳しい意味は、別に説明する必要がありますが、ここでは省略します。

 また、6種類のハンニャ、『布施、浄戒、安忍、精進、静慮、般若(フセ、ジョウカイ、アンニン、ショウジン、ジョウリョ、ハンニャ)』があります。

takaの考察
9 第4段階としての行

 この部分も簡単です。頭でいろいろ想ったことにもとづいて行動する、ということです。その具体的行動として、上記の6種類のハンニャ、『布施』『浄戒』『安忍』『精進』『静慮』『般若』がある、ということです。

 また、1種類のハンニャ・ハラミタは、今現在、お釈迦さまの悟りとして存在しています。

takaの考察
10 第5段階としての識

 この部分も簡単です。いろいろな行をおこなった結果として、お釈迦さまの知識(識)が今もある、ということです。この『識』は悟りと訳すこともできますが、私は賛成しません。ここで得られた『識』は、すぐさま次の第6段階としての『色』へ続くからです。

 例えば、美味しいケーキを食べたとしましょう。初めて食べた時は、単純に「美味しい」としか感じなかったものが、自分でもケーキを作るようになると、同じケーキを食べても美味しさが変わります。つまり、ケーキ生地のつくり、クリームの材料、トッピングの方法など、これまで気づかなかったことが分るようになり、より深い味わいを楽しめるようになるのと同じです。

 また、ハンニャ・ハラミタは『過去、現在、未来』の3種類に分けられます。

takaの考察
11 時間を3つに分ける

 時間を『過去・現在・未来』の3つに分けるだけなら、考察する必要はありません。しかし、それらが同等のものとして扱われていることは、重要です。どれか1つが最重要なのではなく、3つに分けたものすべてが等しく重要なのです。また、過去や未来を細分することもしていません。過去についてだけ考えれば、1分前と10年前と1000年前と400万年前は、等しい、という可能性を残しています。

 また、6種類のハンニャ、地・水・火・風・空・識があります。

takaの考察
12 自然界の物質や現象を6つに分ける

 これら6つは、ハンニャをハラミタさせるための物質、と考えることもできます。外界の物質、あるいは、人間が『受』できない外界、と考えることもできます。ただし、ここに第5段階『識』を加えたことは、自然と人間を一体化させたいから、だと思います。

 また、『行・往・坐・臥』という4種類のハンニャは、人間によって行なわれる行為です。

takaの考察
13 『行』を強調した道元

 道元は、最後に、第2段階の『行』を繰り返しました。彼は、行動する人間だったからでしょう。いや、人間は行動しなければ何も始まらないので、当然のことかも知れません。生物学では『生命活動』といい、その生命活動は、自然の法則にしたがって行なわれています。

 さて、私自身が目指している活動は、道元と近いものであると感じています。それを『生物道』と名付けることもできそうです。

===(以下は、2007年11月17日追記)
 私は、初めてこの巻『マカ・ハンニャ・ハラミタ』読んだ時、道元(あるいは、お釈迦さま)が自分の考えを細分し、それを漢字1字(あるいは少数の漢字)で表してることに衝撃的な感動を受けました。それから、道元が書いたこの巻を自分で精読してみたい欲求にかられ、9日間(延べ20時間程度)取り組んでいます。
 その結果、この1巻だけでは、ハンニャが理解できないこと、あるいは、お釈迦さまの「ハンニャ」を道元が理解していないことが分りました。その一方、ハンニャをハラミタさせる方法については、分りました。その方法は『行』です。これについては、道元が繰り返し具体的な『行』について記述しています。ハンニャは自ずからハラミタしますが、その方法として『行』があることを道元は記述しています。
 それから、道元はこの巻に限らず、繰り返し『行』について述べています。『坐禅』という具体的な行の変化を詳細に記述しています。しかし、私の興味は『行』ではなく、ハンニャです。ハンニャが何であるのか知りたいと思い、この1巻の分析を始めたのです。私が知りたいのは『マカ・ハンニャ・ハラミタ』ではなく、『マカ・ハンニャ』ではなく、『ハンニャ』だけです。道元はこの1巻の題名を『マカ・ハンニャ・ハラミタ』としましたが、約100巻およぶ正法眼蔵の中に『ハンニャ』という題名が出てきません。私は、この点が納得できないばかりでなく、道元が『行』にこだわり過ぎているように感じます。あるいは、道元はハンニャをハラミタさせたい欲求にかられているのではいか、とさえ感じてしまいます。
 お釈迦さまが伝えようとした『ハンニャ』を私が著すなら、1巻の題名は『マカ・ハンニャ』ではなく、『ハンニャ』です。マカ、すなわち、『大きな』という単語は不要であるだけでなく、間違いだと思います。お釈迦さまの『ハンニャ』を尊重するからといって、『マカ』をつけるのは誤りだと思います。意味が違ってしまうからです。

===(以下は、2007年11月18日追記)
 私は、自分自身の中にハンニャが出現した経験が2回あります。

 1回目は、高校2年生の秋、生物学の勉強をしている時でした。光合成の化学反応式と、細胞内呼吸の化学反応式が1つの輪を形成していることを発見した時です。これまでばらばらだった知識が、ぺたぺたと、その輪に引き寄せられていったのです。その輪は、私の意志とは無関係に膨張し、やがて止まってしまいました。これは、生物学の個々の知識について私がよく理解していないことが原因だったので、私は、その完全な輪の一部に吸収させるように考えるようにしました。その結果、二次元の輪は、三次元の球体になっていきました。その球体は、生物学の範囲を越えて、化学や社会学や国語学や数学の世界まで広がっていきましたが、完全に1つになるには至っていません。これは、私の不勉強によるところが原因なので、これから勉強を続ければ、さらに大きく膨らむと思います。ただし、現在の私は、このハンニャをこの手に掴むように感じることができなくなってしまいました。とても悲しいことですが、それは仕方ありません。原因も分りません。26才頃までは、いつでも取り出して眺めることができたのですが、今はありません。ただ、高校2年生の時に出現をみた感動や、ハンニャが成長していく過程や、その成長が止まってしまう点、は明確に記憶しています。それらは今でも鮮明に覚えています。

 2回目は、30才の頃でした。私が愛車プレーリーちゃんに乗っていたころの話です。お酒を飲んで、友達と心理テストをしたときのことです。私の頭の中に、1辺の長さが1cmの立方体が出現しました。その小さな立方体は、8本の無色透明な棒(5×5×200)で作られた立方体(手のひらサイズ)の中央に浮かび、高速回転を始めました。初めは、無色透明の8本の糸で固定されているように思ったのですが、回転を始めると、磁力によって平衡が保たれるように大きな立方体の中央に位置しました。小さな立方体は、もはや肉眼では識別できない速さで回転し、小さな球体となり、虹色(すべてのエネルギー)を発しました。手で掴まえることができない、小さなエネルギーの塊になりました。そして、友達が「その小さな立方体は、福地君そのものだよ」と言った時、私は衝撃を受けました。心理テストの問題に答えただけですが、これほど明確に、自己を具体的な形と状態で見たことは初めて経験でした。まさに、自分自身である、と感じました。釈迦の言葉を借りれば、この小さな立方体はハンニャです。この小さな立方体は、今でも、初めて見た時と同じようにみることができます。ただし、回転速度とエネルギー量が減少しているので悲しく思うのですが、、、

18:00 クロッキーと撮影
23:00 消灯


2007 11 9(金)
7:10 起床
 カゼ5日目。とうとう声が出なくなった。ある授業では、1人の生徒が「僕がしゃべってあげようか」と申し出たので、その行為に甘えた。1時間でも無理せずにできたので、大変助かった。ありがとうございます。

19:30 消灯


2007 11 10(土)
0:00 起床
 昨夜は早く寝たので、調子が良い。カゼが完治したような錯覚に陥るほど体調が良くなっているが、抗体システムは形成されていないので、あと48時間程度は油断してはいけない。

 道元の正法眼蔵の魔訶般若波羅蜜を研究している。これまでに20時間を消費した。今の課題は次の通りである。

1 日本仏教界の『般若心経』の『般若』と、道元の『般若』を比較する
 古代インドで「ハンニャ」と発音された単語は、『智恵』という意味を持っていた。日本仏教界は、般若心経において、般若をこれと同じように『智恵』と訳し、1つの意味に限定している。

 一方、1200年生れの道元は、ハンニャを漢字『般若』で書いただけでなく、その他にたくさんの漢字を使って般若を表現した。例えば、『色』『受』『想』『行』『識』『眼』『耳』『鼻』『舌』『身』『意』『声』『香』『味』『触』『法』『苦』『集』『滅』『道』『布施』『浄戒』『安忍』『精進』『静慮』『般若』『地』『水』『火』『風』『往』『座』『臥』、などである。これらは、すべて独立した『般若』なので、古代インドにおける『智恵』と訳すことは不可能である。また、道元は2つの単語『般若』と『智恵』を使い分けている。

 以上2つのことから、日本仏教界の般若心教は、道元の精神とはほぼ完全に異なる、あるいは、理解していない、と言い切れる。

 さて、私は「紀元前500年生れの釈迦と、1200年生れの道元の考えが極めて等しい」という前提にもとづき、

2 仏陀の『ハンニャ』を、私自身の方法でとらえ直す。


2007 11 11(日)
 カゼ7日目。今日の夕方に完治する予定だけれど、うまくいくかな。今は、軽い悪寒と咳きとたん。

 かなりショックなことがあって、今すぐに真相を知りたいけれど、とりあえず一呼吸、時間を使って動揺を落ち着けることが先決だ。それにしても、最近は、時間を使うことが多くなってきた。我慢し過ぎているのかも知れない。あるいは、現実と理想の差が開き過ぎているのかも知れない。あるいは、私がもっている時間の流れが速すぎるのか。うーん。どうやら、1番最後のアイデアが真相を突いているようだ。私の内部を流れる時間は、最近、増々そのスピードを高めている。人生の中でも、もっとも充実した季節だからかも知れない。/ と書いてみたものの、もう1つのアイデアは、自分が暴走している、自分1人だけが勘違いしている、というものだ。これもまた真実だ。要するに、何とかと何とかは紙一重、ということだろう。紙を破らないよう、自分の紙を良く見て、上手に付き合うしかない。最終判断は、常に自分であることを肝に命じて、自分を操縦しよう。/ さて、以上の状況や考えを、道元はどのように捉えるだろうか。彼は実践を第1に行なうから、、、私と大差はあるまい。

◎ 道元を研究して、最近思うこと
1 道元は、釈迦の考えを100%理解できない。
2 道元は、釈迦の考え以上のことを発見、実践した。
3 道元と同様に、私も道元のことを100%理解できないが、彼以上のことを発見、実践できる。
 実は、私の考えのいくつかは、すでにこれまでの研究者の考えと異なっている。例えば、「般若(はんにゃ)」と「色(シキ)」の扱いについては、先に詳しく述べたが、これらは


2007 11 12(月)
 カゼ8日目。予定通り完治しなかったが、初めのウィスルに対する抗体は完成しているはずだ。他のものに対しても発病しているようだが、症状が軽い。

20:40 テニス
22:40 タコス屋
24:20 消灯


2007 11 13(火)
 カゼ9日目。
 午後から大変寒い思いをしたので、体内のウィスルが爆発的に増殖してしまった。体調は今回のシリーズで最悪となり、薬の力を頼らなければならない。今日の夜は会議が入っているが、診察を受け、いつもの薬を頂かなければならない。病院にいくのも2年ぶりぐらいだろうか。明確な記憶がないくらい昔のことだ。

18:45 木下医院
19:00 白さぎ会 広報部会
21:45 消灯


2007 11 14(水)
 カゼ10日目。薬はよく効いた。症状がほとんどない。副鼻腔炎の炎症も1/5になった。素晴らしい。これでまた、調子に乗り過ぎないように注意しよう。さて、最近思うことは、カゼをひくと体力を失うが、それはカゼ・ウィスルの自己増殖の材料としてタンパク質が消費されたり、鼻水や痰としてタンパク質が失われるからではないかと考えている。また、昨日、病院で体温を測ったら36.1度Cで、私の予想より0.5度Cも低かった。平熱だ。私は微熱によってウィスルの繁殖を抑えているのかと思ったら、違っていた。身体の表面まで、つまり、皮膚まで平熱に保つことで、繁殖の隙を極力抑えていたことになる。ちなみに、私は羽毛ジャケットの他に4枚を重ね着している。

20:00 消灯


2007 11 15(木)
 カゼ11日目。
7:00 起床
 11時間睡眠をとり、調子が良い。一晩のうちに、自家製インターフェロン様も大活躍したものと思われる。お陰で、アフリカの話など大脱線をしてしまった。子供達は喜んでくれたと思うけれど、、、。

18:50 クロッキー
21:00 2次会
24:00 消灯


2007 11 16(金)
 カゼ12日目。

 市立図書館は第3金曜日で休みだった。


2007 11 17(土)
5:20 起床
 カゼ13日目にして、今回のシリーズを完了した模様。喜んで新しいシリーズを招かないように注意しよう。

19:00 バレエ・モダンダンス(芸創センター)
1 Harvest 振付:近江貞美
 近江氏の振付けが北欧の民族音楽と一致し、美しくも厳しい自然環境の中で働く女性達の、美しくも逞しい生活を垣間見たようなような気がした。たった40分のステージで、これだけの世界を構築するとは、本当に素晴らしい。ただ1曲だけ、私の不勉強からか、作品の雰囲気に合わないような気がしたが、、、また、4肢、身体、顔が織り成すの美しい形態は、写真家としての私にインスピレーションを与えてくれると同時に、天上からのトップライトや側面上部からの光もいくつかのヒントを与えてくれた。さらに、時間と一緒に存在する身体の動きの美しさや面白さを脳裏に焼き付かせてくれた。時間とともにある舞台芸術と時間を必要としない美術館芸術の違いを考えさせてくれる素晴らしい時間だった。さらに、日常を感じさせないことが重要である、と教えてくれた。いつもと同じなら、この会場に足を運ぶ必要はないからである。
2 ひるえかにもどこ 振付:中村しんじ
 小道具や映像に気をとられた。芝居かダンスかその中間かその他か、を思考していた自分がいた。ストーリーは単純で、初めの5分で最後まで読み通すことができた。ダンサー達は、非常によく頑張っていた。
 また、公演の途中で喉の調子が悪くなり、両眼から涙を出しながら我慢した。こんな経験は初めてだった。/ 今回の公演は、名古屋市民芸術祭2007主催だった。アンケートがあったので、今後の発展を期待していくつかの意見と提案をした。いずれにしても、主催者もしっかりしなければ、これだけ大きなことはできないから、頑張って欲しい。

22:30 消灯


2007 11 18(日)
6:20 起床

8:30 テニス

14:00 ひめは菜

15:20 八幡湯

18:30 パソコン起動
 今日は5時間テニスだった。がんばったけれど、一勝もできなかった。こんな日もあるものだ。初めに、突っ込む練習をしたのが良くなかった、と言い訳しておこう。

 左手の親指が腱鞘炎になってから2ヶ月が過ぎようとしている。良くなる気配がないけれど、指を使わないように気をつけている。ただ、パソコンのキーボードが原因なら、悪化しないようにするだけで精一杯だけれど。

 今年の冬は、旅行できないかも知れない。計画段階で大失敗をしたからだ。大きな路線変更を強いられることになりそうだ。うーん。

 クロッキーについては飛躍することはないが、後退することもない。今は我慢して継続することが大切だ。教育については、頭の中ではやりたいことがあっても、それを著述しようとすると筆が進まない。ハングリー精神に欠けているからだろう。写真については、ゆっくりと進んでいる。対象があることだから、自分のペースだけでは進めることができない。この点については、十分に注意する必要がある。

 時間が進む速さは、個体によって違う。かつて、私は時間と戦っていたが、その時間は「時計の針」だった。時計の針は、私を無視して、過去から未来に向かって進んでいった。私は、この時計の針とは上手に付き合えるようになり、今では、時計の針を楽しむまでになっている。/ そして今、私が直面している時間に関する問題は、「ある現象を認識するために必要な時間の個体差」だ。この時間について、簡単な例を挙げよう。例えば、コップが落ちて割れた(現象A)としよう。もし、誰も現象Aを見なければ、コップが割れたことは分らない。もし、私が割れる瞬間を見ていたなら、ほとんどその瞬間に認識できだろう。しかし、もしコップがとても大切なものだったら、私は割れたことを認めたくないから、認識するまでに1秒〜5秒の時間がかかるだろう。あるいは、落ちていき破片が飛び散る様子がスローモーションのように深く脳裏に焼き付くことだろう。その一方、コップを見たことがないような生活をしている人なら、何が起こったのか永遠に理解できない。また、コップに対して完全に興味がないなら、まるで見ていなかったと場合と同じように認識されないかも知れない。このように、ある現象を認識するために必要な時間は、個体によって違う。私は、この認識速度が速く、しかも、その認識を直感に頼る性質がある。したがって、私と異なる方法で認識する人や、認識速度が極端に、、、、/ なるほど、ここまで書いて問題点が明確になってきた。私の問題点は、認識速度ではなくて、認識方法にある。

 私がもっとも大切にすることは、直感、インスピレーション、印象、雰囲気であり、それらは私の実体験を反省、分析して得られたものである。したがって、これからも多くの失敗を繰り返すことになるが、自分が大切にすることを信じること、自己を客観的に反省、分析することを怠らないようにすること、以上2点を忘れないようにしよう。


2007 11 19(月)

18:50 クロッキー
21:00 二次会


2007 11 20(火)

 テーマと違う講演を聴いた。これが日常茶飯事だとしたら、講演者も聴衆も狂った常識をもつ集団である、と断言できる。私は、自分の常識(コモン・センス)を壊さないように最善を尽さなければならない。破壊されるのはまっぴらご免だ。

17:30 クロッキーと撮影


2007 11 21(水)

19:00 テニス


2007 11 22(木)

 男子バレー日本チームがアルゼンチンに勝った。おめでとう。

21:20 名大図書館は休館日だった


2007 11 23(金、祝)
7:20 起床
 だらだらした3連休の始まりだ。朝から仕事を初めて、集中力が切れたら走り始めようと思っている。/ 名大図書館から返却督促メールが来てしまった。迂闊だった。

 午後から小旅行に出かけた。目的は、国道157号を走ること、野宿すること、加賀の陶芸を見ること、現代の永平寺をみること、である。


2007 11 24(土)

17:50 テニス


2007 11 25(日)

 ゆっくり睡眠がとれて、満足できる日だったと思う。


2007 11 26(月)

19:00 テニス
 今日は、お目当てのコーチがいなくてガッカリだった。ファンクラブの会員ではないけれど、ゆっくりテニスをしたかった。

 メモ帳の更新状況がよくない。もう少し頑張ろう。/ さて、今日は自室で缶ビールを飲んでいる。自分では珍しいことだと思っているが、統計をとれば50%ぐらい逝ってしまうのかなあ。とりあえず、昨夜も飲んだ。一昨日とニ昨日は飲んでいない。まあ、飲む飲まないは、僕にとってドウデモ良いことだけれど、飲むと仕事ができる時間が減るのは確実だ。それだけ、やりたいことが先送りになる。馬鹿げたことのように思う。

 道元の正法眼蔵は、魅力を失ってしまった。原因は、現代語に訳している人が十分に理解していないことにあると思うが、かといって、原文を読むだけの実力もないので致し方あるまい。困った、困った。いずれにしても、道元は、かなりべたべたに人間臭く、何度も何度も説明するのが好きな人だと思う(僕とはちょっと違う。とは言うものの、何とか30%は読み終えたので、最後まで読んでみようと思う。2週間もかからないだろう。


2007 11 27(火)

 ある1つの目標を失ってからどうするかで、その後の運命が決まる。となると、運命とは自分がどうするかで決まるのだから、運命は自分できめることができる。また、積極的に目的を失うことも1つの重要な選択肢としてつくってみるもの面白い。


2007 11 28(水)
6:00 起床
 朝から教育に関するHPの加筆修正を行なった。わずかな仕事だけれど、読み手に分かりやすくしようすると、相当な時間が必要になる。

 アバドが演奏するチャイコフスキーを聴いた。僕には馴染めない部分がたくさんある。チャイコフスキーについてはカラヤンの方が好きだ。


2007 11 29(木)

18:50 クロッキー
21:00 二次会
24:00 消灯


2007 11 30(金)

18:30 忘年会(テニス)
22:00 消灯

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 28(水) 校内巡視と廊下掃除(若手教師のためのワンポイント・レッスン)
       塾へ行かせた方がよいですか?(福地先生の教育の相談室
 25(日) 福地先生の教育の相談室

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