takaのメモ帳  

2007年 12月


2007 12 1(土)
6:30 起床

7:30 地下鉄『平針駅』

8:00 テニス

14:30 キスリング展(松坂屋美術館)
 作品も良かったが、展示構成がしっかりしていたので、企画展として楽しめた。

18:30 菜の花亭

 夕方から、北京オリンピック予選絡みの野球、男子バレーボールを観戦してしまい、24時近くの消灯となってしまった。


2007 12 2(日)
9:00 テニス
 テニスウェアを着ていったら、調子がよかった。やっぱり、着るものは大切です!

11:15 名大図書館
 この図書館の新着図書は、必ず目を通すようにしている。今日は6册目を通し、2册借りてきた。もう1册は、正法眼蔵の第4巻。さくっと読み終えたい。

12:45 平和園

 午後から不本意にも昼寝をしてしまったが、それがまた気持ちよかった。

16:00 昭和生涯学習センター
16:30 ダイハツ工場


2007 12 3(月)

 コペンちゃんをピックアップ。新しいフロントグリルに満足満足。

19:00 白さぎ会広報部会

 美味しいうどん屋さんを教えてもらった。


2007 12 4(火)

19:00 クロッキー

21:00 二次会

23:30 消灯


2007 12 5(水)

 最近、寝る時間が遅くなり、疲れが溜まってきている。

19:00 テニス
 上級者の方と練習ができて良かった。何も言われずとも、見て真似するだけで上達していくのを感じる。速いボールは上体を捻ってテイクバックとすると同時に、球に合わせたラケット面を作る。球が来たら、重心を前に移動させるだけだ。この重心は常に低く、上下に動くことはない。重心は私のへそを基点とした2次元の平面であり、重心はその平面上を前後左右に移動する。上下に動くのはラケットの面やラケットの軌道である。/ また、サーブは常に、腕をいっぱいに伸ばしたり振り切ることだけを考えればよい。詰まらないことを考えると、ちびたボールになってネットに掛かるだけだ。

 ここ数日は、ダライラマの自然科学に関する考え方について考察している。彼は相当な自由人だが、私の方がもっと自由だ。ただ、世界を代表するような頭脳や思想家、政治家と直接話をする機会は全くないが、自由という1点においては、負けない。私が公務員という立場を辞したら、さらに自由となるだろう。

 おっと! 知らない間に、このHPを開設してから10年の歳月が流れていた。今は公務員という立場から、全ページを公開していないが、もうすぐ自分の活動を完全なる形に仕上げることができるようになるだろう。とても楽しみだ。


2007 12 6(木)

 疲労が溜まってきているので、早々に就寝することにする。


2007 12 7(金)
2:30 起床

17:30 先日教えてもらったうどん屋
21:00 消灯


2007 12 8(土)
0:30 起床
 大変よい目覚めだった。それから、教育関する文章を書いている。午前4時頃まで執筆して、朝寝することにしよう。

7:30 2度目の起床

9:00 テニス(名大)

14:00 テニス(鶴舞)


2007 12 9(日)

7:00 テニス(名大)
 5時間近くテニスをしてしまった。


2007 12 10(月)

18:50 クロッキー
21:00 二次会
24:00 消灯


2007 12 11(火)

18:30 ふみの湯

21:15 消灯


2007 12 12(水)

 夕刻、エイデンで修理に出しておいたハードディスクを受け取った。修理代が無料だったので驚いた。そのまま、帰宅すればよかったが、つまらないウィンドショッピングで時間を浪費した。反省している。


2007 12 13(木)

19:00 忘年会(スネート)
22:00 消灯


2007 12 14(金)
2:30 起床
 最近は教育関係の執筆、および、科学と宗教の関係についての考察を行なっている。また、チャイコフスキーが好きになっているが、彼の音楽や音楽家の解釈をCDによる演奏で楽しむだけの時間がない。辛い。


2007 12 15(土)
9:00 テニス

17:00 宴会


2007 12 16(日)

9:00 コメダ


2007 12 17(月)

18:50 クロッキー
21:00 二次会(忘年会)
 タクシーでの御帰還となる。


2007 12 18(火)

18:30 飲み会
22:20 ふみの湯
 近くの銭湯が火曜日定休なので、ふみの湯を連続してしまった。

24:00 消灯


2007 12 19(水)

18:15 友福
19:00 テニス

バックボレー
・球が浮いてしまう原因が上を向いたラケット面にあることは解っているが、その解決策が分らない。とりあえず打点を50cm以上前にしてみよう。
・壁をつくるだけなら十分にできるようになったが、ステップアップして、球を強く打つためには背筋力が必要になるそうだ。私は十分な背筋力を持っているが、その使い方が分らない。下半身は正面を向いたまま、上体だけを捻り、戻る力を使うのだろうか。それは側筋だと思うけれど、、、。それが正解なら、打ち終わった後の上体が正面を向いて開かないようにするための方策が必要になるかも知れない。

サーブ
・サーブに限らず、ラケットは緩く握り、ボールを打つ時だけ強く握る。握る強さをントロールできるようになれば、打球が強くなるだけでなく、打点や面も安定するだろう。しばらく荒れた球になると思うが我慢しよう。

 最近は、日記を書く気もしないし、本に対する集中力も弱くなってきた。どうしちゃったのだろう。バイオリズムもあるから、無理しないように気が熟すのを待とう。今は良くない季節なのだ。


2007 12 20(木)
5:40 起床

20:40 テニス
 上級の方とプレイできて光栄だった。とても上手く、唖然とするばかりだった。まずは、手加減なしで勝負する姿勢を学びたい。私も全勝で嬉しかった(もちろんパートナーのお陰です)。

23:00 消灯


2007 12 21(金)
5:50 起床

note
・宇宙を論じるときは、光速度一定の法則(光速が一定になる初期条件)を与えても良い。しかし、日常や量子を論じるときは、その法則(初期条件)は役に立たないばかりか混乱を招くだけである。

・光速が一定にしかならないという定義、さもなければ、そのような世界に問題がある。時間が一方向にしか見えないというのも問題だ。

・時間(長さ、あるいは、時空間や重力)に関する初期条件、さらには、数学的な思索は、日常を論じるとき、それが有効であるか否かを十分に判断する必要がある。

・実在と時間は不可分(分けて考えることができない)

・教育における測定は、『評価』といわれている。その測定方法を、光の測定方法と比較すると面白い。
(1)測定道具によって、結果が逆になる(粒子か波か)
(2)すべてが数学的な数値に置き換えられる
 ※そもそも数値化できるという土台があやしい
(3)数値にならないもを信頼しないという科学
(4)数値に置き換えられるものなんて、この世に存在するのか。

・物理学な『時間』の定義を考えてみたまえ。時間を定義するために、時間とは全く関係ない測定機具や無数の定義を必要としているではないか。すると、時間の定義の方法も1つではいけないことは明白である。現在は、日常生活にもっとも利用できそうな形で厳密に定義しているけれど、これは日常生活以外に役に立つことはないだろう。

・私は『飛び飛びの理論』『悲連続』の理論に夢中になっている。もっと詳細に分析できれば、これらの理論によって全ては完全に寸断されてしまうだろう。もう粉々で何も判別できないものになってしまうだろう。そうしたとき、全てを失わないようにすための範囲や、範囲を決める目的が必要にある。これらをきめるのは、他の誰でもない私個人である。

・同一律、矛盾律、排中律は、日常世界の経験(実証)から得られたものだ。したがって、これらが成立する世界は、日常世界に限られる。形而上の世界に持ち込むことはできない。こんな簡単なミスを冒しては、話にならない。

・モデルで書く非連続の世界。量子力学と仏教の空の理論の融合。

・『愛』は非連続の代表であり、現実世界とは切り離さなければならないだろう。とくに、異なる経験をもつ個人と個人のとの間で非連続である。また、愛は、1つの宗教的な定義によって1つに定義されることもある。これは、さまざまなねじれを産むので、『懺悔』や『後悔』とセットにして考えなければならない。1つに定義したり、日常生活と形而上世界を融合させようとするのは、かなりの歪みをつくる。この歪みは、日常世界だけでなく形而上世界も不安定にさせていることを忘れてはいけない。日常生活では戦争となり、形而上世界では不毛の論争、あるいは、論争不可の状態になる。

・物理学では、非連続をパラダイムシフトとして論じてきた。パラダイムのシフトは、単純な視野の広がりだでなく、異質な世界を区別できるようになったことを意味する。そして、私が興味あるのは、日常生活内にも無限の非連続(パラダイムシフト)が存在するという事実だ。その事実を1つひとつ指摘していきたい。それは、物理学のパラダイムシフトという考えでは説明できないものである。

 とても攻撃的な人と話をした。攻撃なんかしなくてもいいのに、、、きっと怯えているだけだと思うけれど、怯えを攻撃に変えてしまっては他人を傷つけるだけだ。私はある程度、自分が傷つくことを覚悟した上で攻撃を受けたけれど、、、辛い。/ 手を抜こうと思えば、どこまでも抜くことができる。逆に、手を尽そうと思えば、どこまでも尽すことができる。これら2つは、日常生活において同じ結果をもたらす行為だから、やってはいけない。中庸であること、自分と相手の限界をわきまえること、適度にゆとりがあること、手を抜いたり尽したりする感覚を捨てることが大切だ。

 今日から冬期休業になった。とても気持ちが楽になった。大きなストレスがかかっていたようなので、自分のためにだけに時間を使いたい。

note
・すべての世界において、単独に固有の実態を取り出すことは不可能である。すべては、他のものと関連しながら、その関連の中に存在しているから。

・日常レベルでは、原因を結果を、慣例や常識によって判断しなければ、無限の連鎖にはまり込んでしまう。子どもの同士の喧嘩においても、両者の言い分を大人が聞いてはいけない。子ども同士の慣例と常識の中で、原因と結果を追求すればよい。その原因と結果は、大人が満足するようなものではないが、喧嘩を重ねるうちに大人の世界の原因と結果に近いものになってっくる。また、幼い子どもにとって、原因と結果は識別不可能である。


2007 12 22(土)
6:10 起床
 とりあえず3連休が始まり、精神的に楽になった。今日は青空が見えないが、できるだけテニスをやりたい。

note
・競争原理(ダーウィンの進化論、資本主義、弱肉強食、個人主義、階級社会)に対立するものとしての、協力原理。・・・似たようなことを言っていた人がいたけれど、誰か忘れてしまった。

・分界点(形而上と形而下、意識と無意識、生物と非生物、生物と物質)は、何によって世界を区切っているのか。区切る方法は何か。区切る必要はあるのか。なぜ区切るのか。なぜ区切りたいのか。

・仏教において、『業(ごう、カルマ、行為)』の理解はとても重要である。現在、私が理解したところでは、業は『個を認識した生物』の意図的な行為であるが、そもそも『個を認識すること』は可能なのだろうか。解脱した空の世界にあるものは、個を認識することがないが、本当に『個』が存在しないのだろうか。解脱は、客観的に得られるのか得られないのか。もし、そのような考えが不要なら客観ではなくなる。そして、解脱は、解脱以外の時空間においてしか確認できないものになる。つまりだ。解脱できる者であっても、自分が解脱していることは、解脱中には認識でない。入る瞬間と出る瞬間だけになってしまう。しかしだ。自分の解脱経験からすると、解脱中においても自分が解脱していることを認識できるから、解脱中も業の中にある。ある。確実にある。となると、自分の解脱経験は、真の解脱経験と言えないのだろうか。一度、解脱できる人と直接話をしてみたい。だたし、その人物も本当に解脱しているのか、自分では認識できない可能性がある。

・「物質としてのDNAの複製ミスは、純粋にランダムに発生する」とされていることに関して、次のような疑問を提示する。
(1)DNAを物質として考えて良いのか
(2)複製は生命活動の1つではないのか
(3)ランダムは、エントロピーの増大を意味しているのか

9:00 テニス
 水曜日、木曜日にテニスをやったばかりだったので、かなり調子が良かった。重心を丹田に置き、ラケットを軽く持ち、顔の前に配置した。サーブをリターンする時は、球の状態によって、打てる時は全力で打つようにした。『打てる時は』という判断がとても重要で、球に応じていくつかの打ち方を十分に意識した。ボレーの打点は前にしようとしたが、ほとんど実践できなかった。バックハンドの打点は、かなり見えるようになってきた。また、ラケットヘッドが下がらないように、常に気をつけて打つことができた。サーブは、インパクトの時だけ力を入れるようにしたが、疲れてくると力を緩めることができなくなってしまうことに気づいた。つまり、力は入れるより緩める方が難しい。

12:10 龍苑

 テレビを見てしまった。それはそれで楽しかったが、もっと違う楽しい番組もあったかも知れない。テレビ関して免疫を失ってしまった自分に注意!

14:00 パソコンon

note
・生きているヒトの心と身体は切り離すことはできないが、永遠に生き残るものがある。例えば、
(1)書物に記された思想
(2)絵画に宿る瞬間に襲いくるエネルギー
(3)楽譜に込められら熱い情感
などだ。これらの著作物に宿るエネルギーをまとめて捉えることはできるのか。また、それらは、何故、人々を捕らえて離さないのか。

・そもそも、私がこのようにnoteを綴る動機は何か。これこそ人類の最大の特徴と言えるだろう。私の手記を読んでいる人も、私と同じ特徴をもつと言えるだろう。


2007 12 23(日)
3:20 起床

note
・『一切皆苦』の苦は、エントロピー増大則に置き換えることができる。もし、これが成立するなら、『一切皆苦』は生きている生物の理論ではなくなるので、重大な発見になるかもしれない。数日以上の考察が必要になるだろう。

・現在、主観と客観は相反するものとして定義されているが、これらを統合するような具体的方法、考え方を生み出してみたい(1人称〜3人称の統合)。その1つの方法として、多数の人間が同じ主観(感覚、気持ち)をもつ点に注目してみてはどうだろうか。私の渡航経験からしても、風俗・習慣・宗教が全く違うように見えても、心の動きはほとんど同じだったし、生活レベルの目標は同じだったと感じている。これは、すべての人間が1人称レベルで感じるものを3人称レベルで統計的に扱う手法だ。もちろん、その逆も科学的実験によって検証できる。

・生きている「その人」を敬っているのか、それとも、その人だけが理解している『理論』を敬っているのか、あるいは、その両者を敬っているのか。同じような問いは、『技術』や『経験』に置き換えることはできるが、『社会的地位』に置き換えることは難しい。以上は、生きている人間について述べたものである。

・悟りは、仏陀の追体験をしているに過ぎないが、同じ悟りを得ることはない。悟りはたくさんの種類や内容があると同時に、いくつかの段階がある。また、最高の悟りは定義できないであろう。最高の悟りは、人間を含むすべての生物から隔絶した『死』の世界、物理学の世界に属する。それは知的な探究にとどまらなければ、身体の死を意味する。それを悟りの目的とするなら、悟りは死を意味する。

・なりふり構わない勝利至上主義。相手の懸命なプレーにブーイングする観衆。資本主義にあおられた民衆や国民。戦争に直結するマインドコントロール。

・自分の子どもを「できない」という無能な親。

・本当に心から楽しめることに出会ったなら、それは奇跡と言うに相応しい。となると、誰だって『奇跡を求めるのは無謀』なことは知っているから、本当に心から楽しめることを願ったり、当然と思ってはいけない。それを永遠に追い求めようとするだけで十分であり、奇跡の瞬間が訪れたら、自分の努力と周囲に感謝し、その一瞬を満喫しよう。その幸福な瞬間は瞬間でしかないから、同じ瞬間は二度と訪れない。もし、同じものを求めるなら、それは、あなただけでなく全ての人々を不幸にする。新しい幸せや喜びを求めなければいけない。ただ、この真実に気づく人は少ない。多くの人々は、過去に追い縋り、自分だけでなく周りの人々と不毛の言い争いを繰り返す。過ぎ去った時間をどうしようというのだ。私たちが生きている日常レベルにおいて、時間は過去から未来に向かって動いている。誰も逆向きに動かすことはできない。

・『尊敬、礼儀、家族の絆』←→『金、物欲、塾での順位、名誉、虚栄心』。これと同様な事象を羅列し、てんびんにかけ、どちらに傾くか調べてみると面白い。生きていく上では、どちらが大切なのか一概に言えないことも出てくるだろう。生は渾沌とし、矛盾と葛藤に満ちている。

・大学生でありながらバイトをしなければならないのはかなりの苦学生か、まだ、自分の方向を見定めていないか、あるいは、将来は私のように迷えるまぬけな凡人になる、のか。

・その『お稽古事』は本当に必要なのか。親は『金のなる木』なのか。

・1人で部屋の中にいても、テレビとゲーム機があるから寂しくない。友達はなくても大丈夫。携帯電話もメールだけで大丈夫。

・当たり前、という感覚を使用できる範囲(場所、時間)。

・他人から見て『行儀が良い』は、『都合が良い』に置き換えることができる。

・「君は普通だよ」と言われてみたい。

・そう簡単に誉めては、人間は成長しない。叩いた方が良くのびる。時には失望させても良い。現在の大人や教師は、どれほどの失望や絶望を味わいながら、それを克服しようと懸命に生きていることか。子どもの将来も同じ状態が予測できるから、同じような体験をさせることは不可欠だ。厳しい現実社会を学ばずして、一体何を学ばせようのだ。国語や数学よりも大切なことがあるだろう。大人や教師は、現実にふたをしてはいけない。今なら、正しいいじめ教育も必要だ。大人社会にいじめが存在している現実を見てみたまえ。大人がいじめを秘密にしても、子どもはしっかりと真似をする。それが、大人も子どもも含めた今の社会の現実だ。

9:00 テニス


2007 12 24(月)

9:00 テニス
 今日は3日連続でふらふらである。


2007 12 25(火)

 瞑想とクロッキーの関係について研究をしている。実践しなければいけないので、急遽、1分クロッキーと20分クロッキーを行なうことにした。

20:40 テニス
 コーチが持っているリズムを学んでいる。


2007 12 26(水)
 今日は半暇(午前)を頂いた。

10:00 テニス

身体の軸の傾き
 『強くストロークしようとすると身体の軸、および、首が傾く』、と指摘された。鏡を見ると、なるほどその通りで、ボールの方に身体が完全に傾いていた。これでは、さまざまな障害が生じるのは当然である。フォアハンド、バックハンド共に、軸が傾かないように注意しなければならない。そのためにには、背筋と側筋を意識する必要があるだろう。また、コート上では太陽の影によって自分の体勢をチェックできる。/ 現在のところ、重心は安定して低くできるようになってきていたが、重心を通る軸の傾きは全く意識していなかった。

ローボレー
 合わせるだけで十分である。もし、ラケットを振りたいなら、フォロースルーだけにしなければならない。テイクバックはあり得ないし、してしまうと、確実にオーバーすると考えてよい。余裕があるなら、テイクバックではなく、ボールの横に身体を入れるために時間を使おう!

サーブのフォロースルー
 サーブのスイングも3段階(テイクバック、打点、フォロースルー)に分類できる。この3つのうち、私にとって一番欠けているのはフォロースルーだから、しっかり前にボールを押し出すようにしてみよう。また、打点はできるだけ前にしてみよう。

18:50 クロッキー
21:00 二次会


2007 12 27(木)

18:00 クロッキー

21:25 二次会
23:30 消灯


2007 12 28(金)
 御用納め。明日から6日間は休みとなる。ふー。

 瞑想とクロッキーについては、もっと深くクロッキーを実践して考察を深めたい。チャンスを作らねば、、、


2007 12 29(土)

9:00 テニス
 雨模様なのに頑張ってしまった。それから、某山田氏の御指導のもと、テニスラケット購入。これまでのものは2年1ヶ月の間、ガットを1度も張り替えずに愛用してきた。ガットの限界に達したので、その張り替えと同時に御購入と相成った。


2007 12 30(日)

 微妙なペースで仕事が進んでいる。


2007 12 31(月)
3:40 起床
 今年も大晦日になった。月日はとどまることを知らぬようにみえるが、それは月日をみて生活しているからだろう。このnoteも、冒頭に月日を記述している。よくよく人間は月日を愛しているのだろう。それとも、月日に対する偏愛は、私のように欲望に満ちた人間の特徴なのだろうか。とくに、朝起きが好きで、起床時間を大切にするのは、かなり強欲者かも知れぬ。我ながら恐ろしいものだ。自分が得た時間は、務めて他人のために捧げなければならない。さもなくば、日時の意識を捨てるしかなかろう。・・・このような手記は、人間が社会生活を営むようになってから生まれた人類共通のテーマとも言える。このテーマを苦悩として受け入れるか、必然として受け入れるか、それとも、喜びとして受け入れるかで、その人が所属する精神世界が決まる。僕の今は苦悩だけれど、必然の時もあるし、喜びの時もある。私は、どこにも属したくないし、月日にも左右されたくないと願っているが、私は独立して存在できにないことを理解している。

 11月、12月とアクセス数が減ってきた。ちょっと難しいことを書き過ぎたかな、と反省している。来年は、もう少し分かりやすいもの、楽しいものも増やそう。

 それでは、よいお年を!

続きをどうぞ!
takaのメモ帳
2008年 1月

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12月更新履歴
31(月) 子どもが相談してきたら(若手教師のためのワンポイント・レッスン) 
30(日) 合格印で誉めたたえよう(同上)
29(土) 学校の特色(同上)
28(金) 五月蝿い生徒を活かす(同上)
26(水) 家庭訪問で記念撮影(同上)
25(火) 不自然な遊びを見かけたら(同上)
24(月) いじめとは何か(同上)
21(金) 走らない先生(同上)
13(木) 軽いアドバスの仕方(同上)
12(水) 悩みの聴き方(同上)
11(火) 1時間の授業を作ろう(同上)
 9(日) 初めと終わりの挨拶(同上)
 8(土) 何を教えるか(同上)
 7(金) ガラスの壊れもの(同上)
 1(土) 席替えの方法(同上)

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(c) 2007 fukuchi takahiro