私の日記
                 1997 08 03(日)晴れ
  金の首都『カンパラ』

 ==◎今日の日程======================
 午前:ナマサレ(モーターボート)→『?』
        (トラック)   →カンパラ
 午後:              ウガンダ国立劇場で観劇
                          カンパラ泊
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  6時半起床。
  昨夜、
 「舟は出ない。」
 「明日は、日曜だからね。」
 と言われたが、港に行ってみる。
 すると、やっぱり、
 「君のために舟を準備してやろう。」
 という事になった。
 「料金はいくらだ?」
 と聞くと、
 「普通の料金だ。」
 と言う。私は、普通の料金より1000Ush高い値段を言われたが知
 らない振りをした。何しろ、モーター付の舟は、この舟以外になさそ
 うだったし、後から、知っていることだけ伝えればよいと思ったから
 だ。

  そうと決まったら、
 「すぐに出発する。」
 と言う。私は、急ぎ足で宿に戻り荷物のパッキング。それを担いで港
 に戻る途中、自転車に乗った男がやって来る。そして、
 「みんなが君を待っている。私の自転車に乗りなさい。」
 と言う。
 何とも、気の短い話だ。
 初めは、自転車で小銭を稼ごうとしているだけかと思ったら、本当に
 待っていた。
 
 (写真上:舟の上から写す。乗客は私の他に2人。港には、
      用の無い人がたくさんのいる。)

  今、私はナイル河を渡っている。ビクトリア湖からすぐのところだ。
 向こう岸まで、15馬力エンジン(ヤマハ)で約1時間。
 「母なるナイル。」
 にふさわしい。流れは大変穏やかで、浮草がいっぱい漂っている。ト
 ンボもいっぱい飛んでいる。

  ところで、ナイルの真ん中で、船頭がうれしそうに言った。
 「あれは、中国の武器製造工場だ。」
 驚いた私は、双眼鏡を取り出し、しっかり覗いた。
 「信じられない。」
 「何で、こんなところに。」
 「廃液とか、いっぱい出しているんだろうな。」
 「冷却用水も大量に使用しているのだろう。」
 「誰を殺すために作っているのだろう。」
 「だから、私の事を中国人と間違えるのか。」

  今でも、ビデオに撮り忘れたことを後悔している。

  さて、向こう岸に着いた。
  ここは、私の地図では何もない地点だ。道も途中で消えている。
 「何かあるだろう。」
 と思っていたが、村はない。ここは漁港。港だけである。

  港の人々は、珍客に驚いた様子だった。私だって、
 「大変な事になった。」
 と思った。交通手段が無いのである。勿論、そこにはトラックが3台
 もいるので、どれかに乗せて貰えばよいのであるが、どれもこれもが
 魚で一杯なのである。つまり、私は魚の上に乗り、魚と一緒に旅をす
 ることになるのである。
 「えーん。」
 「お魚臭くなるぅー。」
 
 (写真上:魚の上の少年を写す。残念ながら、魚は写ってい
   ない。私も、左に写っているはずだった。少年の脇下に
   あるのは炭を詰めた袋。)

  私達のトラックは時速120キロを軽く超えていた。このスピード
 では呼吸できない。途中で、私の眼鏡が吹っ飛んだ。私は、魚の上を
 歩伏前進し、運転席の屋根にたどり着いた。この時、運が悪ければ、
 私は眼鏡と同じ運命だったろう。そして、屋根を力一杯叩いた。
 「止まれ。」
 「止まれ。」
 「止まれ。」
 車は、止まった。そして、
 「眼鏡を落とした。」
 と言った。運転手は、
 「分かった。」
 と言った。私は、Uターンをしてれるものだと思っていたら違った。
 車は一気に加速して、時速120キロになった。一刻の早く市場に着
 き、魚を売ることが大切なのは知っていた。でも、眼鏡は私の必需品
 なのだ。
 もう一度、屋根を叩いた。
 「止まれ。」
 「止まれ。」
 「あの坂まで戻ってくれ。」
 「私を助けてくれ!」
 と頼んだ。
 この時、あの坂までの距離は数キロに達していた。そして、トラック
 は時速100キロで戻ってくれた。
 ところで、私の裸眼は0.2と0.02であるが、この時ばかりは両
 目とも5.0になっていた。今でも、
 「よく、あんな縁なし眼鏡を見つけれたものだ。」
 と不思議に思う。でも、あの光景、あの落ちていた眼鏡は今でも鮮明
 に覚えている。
 奇跡に近い。

  トラックは、ウガンダの首都『カンパラ』の手前の町で止まった。
  そして、降ろされた。
  この時、同乗した少年が、
 「金、金、金。」
 「金をくれ!」
 と連呼した。
 私は約束の4000Ushを渡した。

  カンパラまでは、マタトゥウに乗った。
  タクシー・パークまで500Ush。宿は、すぐ目の前にある新築ロッ
 ジ『スワン・ロッジ』にした。料金はシングルで1万Ush。少し高いが、
 満足できる内容だ。私は、熱いシャワーを浴び、寝た。

  午後0時。
  今、インド料理の店にいる。味はまあまあ。料金は恐ろしい程高い。
 でも、白いテーブルクロスが新鮮だ。
  ・ ベジタブル・カレー   2500Ush
  ・ ナン           800Ush
  ・ ストロベリー・アイス  1500Ush
  ・ パッション・ジュース  1000Ush
  ※ これに、サービス料金が15%加算。

  それから、歩いてNOMOギャラリーに行く。無料。ウガンダの若
 い作家達の作品が、所狭しと置いてある。それらは、全て売り物にな
 っていたが、売価は高い。作品の内容はまあまあ。まあ、一見の価値
 はある。

  次に、国立劇場をチェック。
  今日は日曜なので、
 「もしかしたら、午後から、、」
 と思っていたら、本当にやっていた。内容はほとんど分からない。で
 も、面白い。ステージでウガンダ国歌を歌い出したら、観客も歌い出
 した。
 「いい感じ。」
 
 (写真上:とある場面で国家を歌い出す。主な内容は、政治
      に関するものだ。自由席1万Ush。)

  ウガンダは、今、そういう時代なのである。そして、彼等は平和主
 義者であり、肌の色を超えた平等を目指している。

  夕食は、ロッジのレストランでとった。本当は、屋台で食べたかっ
 たが、雨が降ってきたのだ。
  ・ 魚のフライと芋  1500Ush
  ・ ナイル・ビール  1000Ush
  (このビールは、あったかい方がうまい。甘くて、ほげほげとした
   感じが堪らない。)

 ==◎寝る前の独り言=====================
  レストランで、田舎から出てきたという兄弟にビールを奢った。
 「私達は貧乏だ。」
 「1週間に1度だけ、こうして贅沢な食事をする。」
 「だけど、ビールは飲めないから奢ってくれ。」
 初め、私は断わっていたが、話しているうちに奢ってしまった。

  それにしても、若者は、家族のためといって、父母を残して都会に
 向かう。そして、田舎の家族に仕送りをする。

  これは本当に家族のためなのだろうか?

  若者はいつの時代も、どこの国でもPOORなのだ。また、そうで
 なくてはならない。裕福な者は、若者でない。この兄弟は、貧しい家
 に生まれた。そして、都会に生活を、生きることを求めてきた。しか
 し、今は違う。全ては金のためになった。

  彼等は、彼女と一緒にロッジ(私と同じ『スワン・ロッジ』)に泊
 り、奇麗な身なりをしている。煙草も吸う。言葉巧みに外国人からビ
 ールをねだる術も心得た。彼等は目的が変わってしまったことに、気
 付いていない。彼等が、金の呪縛から解放されるのはいつの日か!
 
  現在の首都『カンパラ』の状態からして、長い時間がかかるだろう。
 一生、このままかも知れない。振り返れば、日本だって同様な人がた
 くさんいる。問題は、この兄弟だけに限らない。
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