私の日記
                 1997 07 31(木)晴れ
  移動もまた楽し

 ==◎今日の日程======================
  終日:移動
 シピの滝(ヒッチ)→ンバレ (大型バス)
          →ク ミ (大型バス)
          →ソロティ(トラック)
          →『?』 (自転車)→ブゴンドウ
                        ブゴンドウ村泊
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 7時起床。
 ゆっくり荷物整理。
 「今日の予定は、ぜーんぶ移動。」

 9時。
 今だに、いつ来るとは知れないマタトゥウ(乗り合いバス)を待
 っている。起きてすぐ、外のマタトゥウをチェックしなければい
 けなかった。昨夜の酔っ払い達の言葉、
 『朝8〜9時で大丈夫だよ。』
 を信用した私が悪い。
 が、9時10分。ついに、1台の車がやって来た。

「トヨタ・サーフだ。」
私は道の中央に躍り出て車
を止めた。
「ンバレまで、乗せてくれ。」
「いいよ。」
「いくらだ?」
「無料だ!」
こうにして、ヒッチに成功。
おまけに、目茶速い。たっ
た1時間でンバレの街に着
いた。
(写真上:荷台の上から写す。彼は成功した実業家だった。)


  ンバレでは、帰りの飛行機の再確認。
  今日から『電話も電気もない地域』に突撃!
  チャンスを逃すと大変だ。

 しかし、これには1時間と15000Ush(1700円)を費やした。
 原因は、アエロフロートの応対にある。
 「ナイロビへ国際電話をかけてるよ。」
 と何回も言ったのに、いい加減な応対をしやがって、、、
 私の後ろに長い列。
 信じられない。

 「アエロフロートなんか、2度と使うものか!」
 と心に誓った。

  遅い朝食を終えると、11時を過ぎていた。

  次に、バス乗り場で『クミ』行きマタトゥウを待つ。
 しかし、大型バスがやって来た。
 この方が楽です(2000Ush)。
 13時『ンバレ』発。
 
  14時『クミ』着。
 今度は、『クミ』から『ブゴンドウ』に行きたい。しかし、
 「ブゴンドウ行きのバスはどれだ?」
 と尋ねても、返事は、
 「無い。」

  仕方ないので、人々の薦めに従い、『ソロティ』に行き、そこで乗
 り変えることにした。だけど、『ソロティ』まではヒッチしたい。
 大通りに出たのだが、すぐに大型バスが来たので飛び乗った。
 30分、2000Ush。

 ソロティの街では、トイレの前に座っている若者達に『トイレ使用料』
 として100Ushも取られた。
 「口惜しい。」
 
  次は、トラックに乗ることになった。
 始めは、数人だけだったが、次から次に乗ってきて、とうとう足の踏
 み場もなくなってきた。さらに、言い合いの喧嘩が始まった。事の始
 まりは、一人の宣教師が大声でジーザスの偉大さを説教し始めたこと
 にある。ただでさえ疲れているのに、信仰していない人にとっては喧
 しいだけ。頭に来て当然である。現地語なのでよく分からないが、宣

教師が100Ushやる
と言っている。相手は、
そんなものいらん、と
言っている。
 どちらにしろ馬鹿げ
た話だ。そして、もめ
事の始まりが宗教であ
る事は間違いない。殺
し合いにならないよう
にね、、、
信じる人も信じない人
も。 
(写真上:喧嘩が終わると、何だかつまらない。ビデオで撮ってみる。)

  突然、
 「ここで降りろ。」
 と言われて降ろされた。そして、
 「ここからブゴンドウ村への交通手段は、自転車しかない。」
 と言われる。
 私がうろうろしていると、
 「この自転車に乗れ!」
 「この少年は信用できる。」
 「料金は1000Ushだけだ。」
 「30分で着く。」
 などと、たくさんの人が教えてくれる。

  私は、勧められるままに自転車に乗った。しかし、悲惨である。
 背中の荷物があまりに重い。肩は我慢できても、腰が死にそう。
 思い出すだけで、腰が痛い。
 ううう。

  ブゴンドウの村へは、45分で着いた。
  しかし、これからが大変である。

  村の第一印象は素晴しい。夕日に映える港、網を直す男、漁にでる
 舟、頭に壷を乗せて水を運ぶ女達、何もせずにたたずむ男。
 私は、感動の嵐の中、自転車を降りた。
 「来てよかった。」

 しかし、自転車の青年が言った。
 「3000Ushくれ。」
 「約束は1000Ushのはずだ。」
 「早く着いたから、3000Ushくれ。」
 「駄目だ!1000だ。」
 「3000くれ!」
 「1000だ!」
 「3000だ!」
 このように、いつ果てるとも知れない交渉が続く。次第に、私達の周
 りに人だかりができる。不安がいっぱい出でてくる。
 「今晩ここに泊れるのだろうか?」
 「後から、棒で殴られるんじゃないか?」
 「飯は、喰えるんだろうか?」
 50人は集まった。
 「ここで、殺されても分からないだろうな。」
 「けちな外国人と思っているのかな。」
 「でも、これぐらいは見せておかないと、、、」

  見物客は、100人を超えた。
 よい見せ物なのに、村人達の表情は固い。英語が分からないのだ。
 私はどんどん不安になる。
 結局、2000Ushで合意し、青年は、
 「サンキュウ。」
 とさわやかな顔で帰っていった。

  私は、全然さわやかでない。

  こうなったら笑顔しかない。最高の笑顔を作って、いかにも観光客
 って感じで何とかなるのを待つしかない。案の定、一人の少年が助け
 てくれた。彼は少し英語が話せる。さらに、暫くすると、秘書のステ
 ィーブだ、と名乗る男が現われた。彼はこの村の実力者の一人に違い
 ない。これで、身の安全は一応確保された。私は、これまでの様子を
 ビデオに撮りたかったが、とてもできる状態ではない。

  次に、スティーブと村長を訪ねた。

 村長はとても感じの良い
 人で、15才の妻を持っ
 ている。この妻との子供
 は2人。そして、彼は6
 3歳である。威圧観はな
 い。しかし、彼のもとに、
 喧嘩の裁きを求める村人
 達が来た時は、なかなか
 のもだ。
(写真上:一番右が村長の妻。少なくとも、2人目だ。)
 
 私も、教師として、誰も
 が認める裁きを『毅然』
 として行いたいものであ
 る。この裁きは立法以前
 の問題で、当然のことを
 当然と裁くには『人格』
 以外に必要ない。私は、
 法治国家以前の素晴しい
 村、村を治める姿を見た。
(写真上:息子を抱く村長。)
  それから、村長は数年前オーストラリア人に売った土地を見せて
 くれた。私は、観光客が来るようになったら、この村の生活は一変
 してしまうだろうと思った。

  やっと、村に戻れた。
 が、すでに遅し。太陽はとっぷりと沈んだ。
 私は2泊することを決断した。

  私に部屋を提供してくれた男は、とても背の高い素敵な人だ。
 セメント製の家だ。妹に床を掃除させてから、案内してくれた。
 ここにいた妹はどこかに行ってしまった。

  その夜、漁にでかける舟を撮った。
 ランプを灯して出かける様はあまりに幻想的だ。明日の朝早く、
 小さな淡水魚をいっぱい積んで、帰ってくることだろう。私は
 スティーブに、
 「もう一泊したい。」
 と言った。返事は、
 「イエス。」

  夕食は私の部屋で食べた。近くの食堂から、スティーブが持って来さ

 せたのだ。メニューは『ア
 タプ』と鶏肉のスープ。
 アタプは穀物『メイズ』か
 ら作られたこの地方の主食  で、『つきたての餅』のよ
 う。これが大変美味しく、
 私は大変なファンになっ
 てしまった。
 
(写真上:セメントの床の上にゴザを轢いて食べる。電気はもちろん、
 ベットも無い。あるのは天井、壁、床。写真は、懐中電灯で照らして
 撮影。)

  

 ===[寝る前の独り言]====================
  移動すること自体に、価値があるような気がする。空間を移動。そし
 て、見たことないものを見る。見ようと思わなくても場所が変われば相
 手は勝手に変わるし、自分の価値観だって変わらざるを得ない。
  一方、変化に価値はあるのだろうか。否。『変化』にも『不変』にも
 価値を求めるべきではない。どちらも等価値である。だから、移動する
 ことは、移動するだけに過ぎない。
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私の日記
ブゴンドウ村の一日
1 Aug 1997

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