このページは、旅行記『中央アジア2001夏/taka』です |
真っ白なページを開くと仕事について書きたくなる。本当にストレスが溜まっている。内容はもちろん他人の悪口である。普段は我慢しているけど、私も人間だから我慢に限界がある。堪忍袋があるってもんだ。私はいい子ぶってはいけないし、そんなに能力のある人間ではないから、期待されては困る。だいたい、「君ぐらい経験を積むと、周りが期待するから、、、」そんなことは当たり前で、だから何だっていうんだ。私は誰もにも期待しない。教師なら過度な期待が導き出すもぐらいわかるだろう。私は期待するされるような人間はなりたくないし、期待するのも嫌いだ。自然に生きていたい。人間は独立した上で、期待なしに助け合っていくものだと思っている。私たちは大人だよ。期待するのが勝手なtら、期待に沿わないのも勝手だ。もっとはっきり言うと、僕に期待した人は失望して欲しい。否否、失望してほしいじゃなくて、失望することになるだろう。私は私らしく生きるだけの「とても小さな存在でありたい」と思っているからだ。もし、私を過大評価する人がいたとしても、その人も私と同じ1人の人間なんだから、私にその人の価値観を押し付けるんだったら、私も受けて立とう。私の価値観は、他人に自分の価値観を押しつないことだ。
先日、「ごめんなさい」という謝罪の言葉について考察したが、さらに、「ありがとう」という感謝の言葉について考察したい。結論から言うと、これらは傲慢な言葉だ。自分が失敗したことに対して謝ることは「その時点において、相手を見下す」ことになる。また、何かをしてもらったことに対して感謝することは「その時点において、相手を見上げる」ことである。逆を考えれば、さらに明白で「ごめんなさい」の返事は、「許してやろう」「大したことありません」「お互いさまですから」「謝る必要はありません」「私の方こそ、ごめんなさい」「いいえ、あなたは悪くありません」「どうして、謝るんだ!」「許さない」なんだか、難しくなって来た。
世界には感謝の言葉がない文化も存在する。ある者がない者に与えるのは当然で、そこに『言葉』や『感情』は存在しない。あるのは必然、自然の摂理である。そこに人類の発明した『言語』や『金』を挟み込むと、途端に問題が生じる。だいたい「必然」に言葉は必要ない。好き嫌いとか、そうした、極めて感情的にものならなんとかなるけど、ありがとうレベルになると、もはや、ときどき分からなくなる。また、西欧人は謝ることを嫌うけど、それもその文化の1つだ。