このページは旅行記『パキスタン』PAKISTAN DEC.2003- JAN.2004 です

  私の日記


  12月25日(木)
                      
  ◎ 
モヘンジョダロ==========================
  ラールカーナ(バス、リクシャー)→モヘンジョダロ
  ・ モヘンジョダロ博物館
  ・ モヘンジョダロの遺跡散策
                              モヘンジョダロ

 
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  6.00 起床
  そろそろモヘンジョダロ駅に着いてもいい時間だけれど、誰も呼びに来てくれないらしい。
  各駅停車のようにゆっくりすすむ夜行寝台車の窓からは、夜の闇しか見えないので、自分で
  駅名を読むことも難しいし、、、とりあえず、何時間遅れているのか進んでいるのか、誰か
  に聞いてこよっと、とコンパートメントを出た。誰もが寝ている。ああ、ダメだ。私は自分
  のコンパートメントに戻り、寝袋に足を突っ込んだ。数10分ごとに停車するので、やはり
  気になる。きききききと、カタツムリのようにゆっくり停まった列車の外に出た。

  薄明かりに現われた駅名はモヘンジョダロ。誰もいない。駅の改札は閉まっている。もう、
  これで決定。ここから約20Km離れた大きな町、ラールカーナまで行こう、と決意した。

 
  (上:同じコンパートメントだったウマールとアハマッド)

 
  ウマールは初め、僕のことをアフガン人だと勘違いしていたようだ。私の尖った顎やひげが
  原因だ。まさか夢にも、パキスタン人にアフガニスタン人と間違われるなんて思わなかった
  から、鬚を剃ろうか迷っている。でも、地域が変われば反応も変わるはずだから、変な日本
  人のまま旅行しよう。

  23才と21才の彼らは、カラチから遠く離れたペシャワルまで36時間かけて列車で移動し、
  上の写真下に写っているコンピューターのモニターを宣伝・販売するそうだ。そんな彼らとの
  会話は次の通り。
  1) あなたのことをアフガン人だと思い、警戒していました。
    → ええええっ〜
  2) 1人で旅をしているのですか
    → はいそうです
  3) 友達はいないのですか
    → 日本で仕事をしています
  4) 結婚していますか
    → していません
  5) どうして?、年齢はいくつ?宗教は?
    → 自由を選択しました、41才、仏教
  6) 日本はフリーセックスなのですか?
    → 違うけれど、勘違いしている日本人も多いと思います
  7) 日本人が若々しく見えるのは何故ですか
    → 毎日3回、米をたべているからかなあ
  8) カシミールの問題について知っていますか?
    → インド領になっているカシミールの中心「シュリナガル」を訪問したことがあります

  感じることは、パキスタン人はとても平和で親切で日本人の感覚に近いこと。慎ましやかで、
  困っている人を見ると助けてくれて。暇だからじゃなくて、僅かな興味だけじゃなくて、人を
  助ける純粋な気持ちで。逆に、私に対しておせっかいでもないことに驚く。私の領分を侵すよ
  うなことをしない。カラチ市内の散策でも、私は自分のペースで見物したり、歩いたり、食事
  できる。人付き合いの距離感が日本に近いと感じる。いや、それ以上に繊細に相手を思い遣っ
  ている。

  7.45 ラールカーナの駅前
  今は食事を終えて満足している。辺りはすっかり明るくなり、行き交う人々にも活気が出てき
  た。油っぽい食事で胃袋の運動ペースは悪いので、とにかく食べ過ぎだけに注意しよう。
 
  (上:油が多いだけで味は良い)

  レストランの男が写真を撮ってくれと言う。写真を送って欲しそうだったが、ご免よ、それは
  分からない振りをしてもう1枚写真を撮って許してもらった。僕にはこれだけのことしかでき
  ない。でも、珍しい日本人に撮ってもらった自分のデジタル画像を見て、とっても幸せそうだ
  から、それで良い。彼らも私も、ささやかな行為の中に幸せを見つけだせる(写真下)。
 

  8.30
  そろそろ出発しなければ、、、
  ・・・私は未だパキスタンに来てから大便をしていない。これは珍しい。食物繊維が少ない
  ことも原因だけど、何でかな。今は、ちょっとしたい気持ちもするけれど、、、底冷えして
  きたレストランでは、本当の自分の腸の気持ちは分からない・・・。糞は成功。見晴しの良
  い2階のトイレの鍵を開けてもらい、そこで(失礼しました)。

  すっきりした後は、鉄道駅の予約窓口へ行った。予約窓口は開いていたけれど誰もいない。
  そのかわり、さっさっ、と1人の男が手際よく掃き掃除をしていた。
  「あのう、チケット?」
  「係りの人がもうすぐ来るから、ここで待っていなさい。」
  ウルデゥーでの会話は、こんな感じだったと思う。

  ほどなくして立派な身なりの男性が来た。丁寧な挨拶から駅長だと感じた。私は、次の目的
  地『バハーワルプール』までの1等夜行寝台を買いたいと申し出た。そこはパキスタンの古
  都の1つ、大きな観光名所はないが現地の人々の生活を垣間見たいと思った。しかし、彼が
  時刻表を調べてくれた結果、直行列車はなく、途中で乗り換えなければならないし、現地到
  着時間が午前2時になることが判明。あえなくその計画を断念した。

  
  (上:ラールカーナの駅前付近)

  鉄道の乗り継ぎが悪いので、今日の夜行を諦めた。ということは、(世界4大文明の1つ)イン
  ダス文明の首都『モヘンジョダロ』で宿泊。黄昏から暁まで、古代人の生活に思いを馳せること
  になる。

  ここから、モヘンジョダロまでの移動は、公共機関を使った。リクシャーを貸し切ってもわずか
  250Rs(500円)だけれど、時間がたっぷりできたので、3つの乗り物を乗り継ぐことに
  した。
  1) リクシャーでバス乗り場まで(20Rs)
  2) 乗り合いバスで、モヘンジョダロの手前5キロの幹線道路まで(10Rs)
  3) 乗り合いリクシャーで、現地まで(5Rs)

 
 (上:松葉づえで歩く人)

 
 (上:乗り合いバスは、運転手の後ろに座った。ラールカーナのバス乗り場にて。)

 
 (上:バスの車窓から写す)

 
 (上:何度も何度も馬車とすれ違った)

  11.00 モヘンジョダロ
  着きました。到着。今回の旅の目的地の1つ。時間もたっぷりある。ここに来るまでの道は、
  幹線道路から外れ、人陰もまばらなので、どうなることかと心配していたけれど、遺跡の駐
  車場には車がいっぱい。それだけではない。派手に装飾された大型バスからは小学生が溢れ
  出て、見事に整列(写真下)。そこを通り過ぎた私は、引率の先生は男女5人ずつのうち、
  好奇の目に輝く女性教員を撮影したかったけれど、内気な性格が災いして申し込めませんで
  した。

 
  (上:遺跡モヘンジョダロの駐車場)

  11.20 チェックイン

 私は遺跡敷地内にある考古学局バンガローに宿泊した。この周辺には食堂がなく、宿泊施設も他に1つあるだけ。不便な場所なので、ほとんどが日帰り客なのだ。

 尚、このバンガローは部屋数が5しかないので心配していたが、今日の宿泊客は、カラチから来た医者の4人家族と私だけ。

 チェックインするとき、3回の食事と宿代を払った。

 ・ 昼食 50ルピー
 ・ 夕食 100ルピー
 ・ 朝食 
30ルピー
 ・ 部屋 150ルピー
 ・ 合計 330ルピー

  12.00 モヘンジョダロ博物館
  館内撮影禁止の表示はあっても、カメラを持ったパキスタン観光客の120%が撮影しているの
  で、私もそれに見習った。郷に入っては郷に従え
※1、である。
  
※1 人は住んでいる土地の風俗・習慣に従うのが処世の法である。(童子教による)広辞苑第四版
 

  さすが人類最古の遺跡。小さなテラコッタが多かったけれど、素朴で味わい深かった。6000年
  前の人には、事物がこんな風に見えていたのかしらと興味津々だった。僕もこんな目を持ちたい。

 
  (上:墓場だと思う)

 
  (上:修学旅行の団体さんが来て、本気で走り回っていた)

 
  (上:一番有名な誰かさんの像(レプリカ)と写す。)
  パキスタンの観光客も、この前でバシバシ撮影していました。

  13.00 昼食
  注文した鶏カレーは約束の時間にできていなかったので、私は調理場に入り込み、薪がくべられ
  た2つの鍋を覗いた。1つは庭で逃げ回り、調理を手間取らせた鶏とジャガイモ、1つは白飯だ
  った。(写真左下)

  (写真右上)チキンカレーの味はまずまず。ところで、鶏肉の一番旨い部分は『首』。絶対にこ
  こが旨い。みなさんもお試し下さい。

  ===

  さあ、腹ごしらえもできたところで、遺跡散策に出発。室内は肌寒けれど、屋外は暑そうなので、
  サングラスと帽子で日除け対策。入り口手前で、紙パックのマンゴ・ジュースも購入。

  

  土産物のお兄さんは、私が日本人であることが分かると、ガイドブックを要求した。ダイヤモン
  ド・ビック社の地球の歩き方『パキスタン』2001〜2002年版を手に取ると、184ペー
  ジを開いた。彼の写真がある。私はその写真と彼を写した。(写真上)

  遺跡内の入場料は200ルピー。外国人はパキスタン人の20倍料金だけれど、保存のためなら
  もっと支払ってもよいと思った。日本政府の援助金が正しく利用され、役人の懐に入らなければ
  1年の援助金で十分なんだけれど、、、

 

  メインの遺跡には、色とりどりの衣装を着た女性に溢れていた。世界最古の遺跡より、このチャ
  ンスの方が大切だ。とにかくシャッターを切りました。(写真上)後からゆっくり見直すと、顔
  を隠していない女性が大いのに驚き。これは観光地で気分が開放的になっているからじゃなかな、
  と思う。普段の町中では見ないからね。

  写真上のメインの遺跡について解説すると、発掘調査が始まった当時は、頂上部分の円形ストゥ
  ーパしか露出していなかったので紀元2、3世紀の仏教遺跡だと考えられていたが、その下に埋
  もれていたのは、それとは全く異なる古代文明の建造物だった。それらは同一企画のレンガを積
  み上げて作れているが、巨大浴場や下水(排水)施設など水に関する設備に優れていた。

  (写真上)裕福な階級の人が住んでいたとされる街。詳細は分からないけれど、立派な街だっ
  たことは間違い無い。商店らしきものはない。また、役人にあたるような階級もないようで、
  1人ひとりが平等で、とても民主的な感じがした。

  (写真下)現代の団体観光客と古代人を重ね合わせた。昔の人の身長は、今より2割以上低か
  ったと思うから、さぞかし巨大な都市だったと思う。

 

  (写真下)反対側の崖を登ると、ここはまだ発掘されていない部分で、6000年前のレンガ
  やテラコッタがいたるところに落ちている。私は小1時間、遺跡を拾い集めた。持ち帰ろうか
  迷ったが、結局ポケットに終い込んだ。

 

  (写真下)当時は温暖な気候で、インダス河が近くを流れていたが、現在砂漠漠のような気候に
  変わってしまった。しかも、1950年代のダム建設による地下水上昇とそれに含まれる塩の上
  昇で、6000年前の古代遺跡が土台から崩れ始めた。あと10年持たない、との予測もある。
  私もそう思う。

 

  (写真下)
  私は遺跡中央の城塞部分に立っている。
  右上の柔らかな感じがする部分がストゥーパ(仏塔)
  左奥に広がる緑は昔のインダス川

 

  (写真下)私は大浴場を背にして立っている。
  中央遠くには上と同じストゥーパ(仏塔)。さて、ここは本当に浴場だったのか、それとも、聖なる
  沐浴場だったのか、あるいは、、、さっぱり分からないけれど、平等な市民社会の建造物だと感じた。
  血の匂いは無い。
 

  (写真下)アングルを変えて大浴場を撮影した。
  左の深い溝はインダス川へ続く排水溝。
  右は大浴場で、最右端に(写っていないけれど)ストゥーパがある
  

  (写真下)
  きちんと区画された住居跡
 

  (写真下)
  中央にある円柱状の建造物は、大きな井戸です。
 

  散策を終えて、ほっと一息。遺跡全体の10%しか見ていないけれど充実気分。とくに未調査の
  部分で、6000年前の人類の痕跡を探すのは非常な快感だった。考古学者が熱中する理由が無
  条件で分かった。

  出口付近でぼーっとしていると、パキスタン人が寄ってきて、一緒に写真に写ってくれと言う。
  えっ、シャッターを押して欲しいじゃなくて、私を中央にして一緒に写りたいの? 私のような
  おじさんがモテルことは滅多にないから、何がなんだか分からないけれど、撮影していると関係
  ない人までどんどん寄ってきて無茶苦茶になってカチャ!
 

  (写真上)この先、日本人だけでモテテシマウのであった。嬉しいような悲しいような。

  (写真下)今度の相手は職員旅行の警察官。何でだろう?ではなくて、私が日本人だからこう
  なのだ。警官のジャンパーを羽織らされ、カシャ!
 

  記念撮影はその後も続く。やっぱり辛い。

  午後5時、閉門時間は過ぎてからストゥーパに登った。誰もいなかった。かつてのインダス
  川の向うに太陽が沈んでいく。川の反対側には少なくとも5キロ四方ある古代都市『モヘン
  ジョダロ』が広がっている。モヘンジョダロの意味は『死者の丘』だけど、私には『生きて
  いる人の丘』だった。少なくとも私は生きて、ここに立っている。古代都市モヘンジョダロ
  は今から4600年前に興り、900年後に滅びたとされている。さらに900年後、その
  遺跡に仏教徒が巨大ストゥーパを建築した。私は今、1800年を経たストゥーパに立ち、
  夕日を見ている。イスラム国において参拝する人はいないし、私にとっても展望台に過ぎな
  いし、70年前に建設されたダムによる塩害で崩れ落ちようとしているけれど、それでも人
  は訪れる。ここで私は太陽を見る。昇り沈む太陽。光り輝く正円。私は、それがやがて宇宙
  の塵になることを知っているけれども、それに神や美しく感じている。深く感じている。

 

  19.00 夕食
  指定された時間に食堂へ移動した。冷えきったキッチンから、温かい夕食が運ばれてきた。
  昼にさばかれた鶏をトマトソースで煮込んだもの、米、チャパティー、水が出てきた。

 

  22.00 消灯

  ◎ 寝る前の独り言
  モヘンジョ‐ダロで出会った裕福な身なりの人が言うことは・・・彼奴らは無知だから・・・
  私は何が無知なのか良く分からない。確かに無知から既知の方向へ動こうとしているけれど、
  それが全てではない。あるところまで既知が進むと無知へ進む。今の私はその方向に進んでい
  る。無知から既知へ、そして、既知から無知へ。

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私の日記 12月26日

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