このページは旅行記『パキスタン』PAKISTAN DEC.2003- JAN.2004 です

  私の日記


  12月26日(金)
                      
  ◎ 移動日 =============================
  
モヘンジョダロ(ちんちん、バス)→ ラールカーナ(リクシャー、バス)
  → サッカル(リクシャー)→ ローリー(夜行列車)→

  ・ ラールカーナ市街の写真
  ・ ローリー市街の写真
                              車中泊
 
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  6.40 起床
  開門前、誰もいないモヘンジョダロの遺跡を歩く。

  7.20 太陽を見た
  球、円ではない。赤、光るのではない。水素爆発。
 
  (上:モヘンジョダロの朝焼け)

 
  (上:風化するモヘンジョ‐ダロ)

  冬期の見学時間は9時から17時。もちろん門番が来る前に、引き上げた。

 
  (上:博物館前にあった古代文明を示す地図)

  8.00 旅立ち
  24時間も滞在していないのに、古代都市モヘンジョダロに懐かしさを憶えていた。決して
  このまま永住しようとは思わないが、故郷に帰ってきたような感覚は何だろう。しかも、こ
  の故郷は、私へ旅立ちを催促している。

  食堂の電気は消えていた。厨房を覗くと、主人が小麦粉をこねていたが、私はチェックアウ
  トを申し出た。昨日のコカ・コーラ代とブラック・チャイの料金を請求されたが、昨日支払
  った朝食代とちゃらにした。

  幹線道路のジャンクションまでチンチン(リクシャー)を拾えるか自信がなかったので、1
  キロほど歩いた。後ろから、英語の話せる男が追い付き、一緒に早足で歩いた。そのうちに
  チンチンが来た。ジャンクションまで5ルピーだった。ここからのバスも1時間に1本とい
  う噂だったが、チャイを飲んでいるうちにすぐバスがやってきた。乗ること約40分。昨日、
  夜行寝台で来たラールカーナの街に着いた。


  (上2枚:幹線道路のジャンクションで)

 (写真右)ジャンクションから乗ったバス内の様子。中途半端なところから乗車するのは、まるで、地元民になったような快感。さっきのリクシャーも、黙って乗り込み、黙って5Rs支払い、さようなら。今日は終日移動しなければならないので、旅の楽しみ方をシフトして、移動そのもののを楽しまなくちゃね。観光名所じゃなくてサ。

  大きな街の場合、長距離バスターミナルは複数ある。次の目的地『サッカル』行きバス停は、ここと
  正反対の位置にある。20ルピーでチンチンに乗る。運ちゃんは、途中で何人かの乗客を拾ったが、
  私はラルカナ市内を見学できたので気分良かった。

  以下の写真18枚は、チンチンから撮影しました。ほんの20分の市内見学ですが、旅気分でどうぞ。

リクシャーから見た
ラールカーナ市街
とりあえず1枚、カシャ


床屋を発見、カシャ


反対側から、カシャ
バイクの積み荷から、彼はヤギのミルク売り


メインになる朝食
小麦粉を丸く伸ばして油で揚げる


行き交うチンチン、メインストリート


お祝なのか、葬式なのか
ブーゲンビリアも置いてある


鬚剃り屋? 床屋?
美容院は見たことがない


果物を売る人々


風変わりな老人を発見


水牛が登場


彼らの食べ物、乾燥した藁がいっぱい


線路を横切った
その上を歩いている人もいる


青い草を積んだろば
誰が食べるんだろう?


インダス川を渡る


水牛が増えてきた


と思ったら、川岸には水浴びする群れ


あー、降りて撮影したいなあ


川向こうのバザールに到着したみたい

  私を乗せたリクシャーは、バス停を通り過ぎた。運ちゃんはバスよりも速いトヨタハイエ
  ース乗り場まで案内し、さらに、次の目的地『サッカル』行きハイエースまで探してくれ
  た。ありがとう。

 
  (上:乗り合いリクシャーの運ちゃんを写す)

 
  (上:トヨタハイエースの前でポーズを決める運転手(中央)と勝手に入ってきた2人の男)

  トヨタハイエースの定員は20人。日本なら10人ぐらいだけれど、改造シートを利用して
  寿司詰め可能になっている。さて、この乗合いタクシーの出発時刻は決まっていない。満員
  になったら出発。ついさっき、私の目の前で先発隊が出発したばかりなので、次は何時出発
  するのか心配だったけれど、わずか20分後に乗客が一杯になった。素晴らしい。感激。私
  は助手席に乗ってるんるん。しかも、2倍料金を支払って運転手と2人でゆったり気分。

  何だかほっとして車の中で寝てしまった。だから、画像も感想もない。何時間乗っていたの
  かも忘れた。1〜2時間だったと思うけれど、舗装道路を走っていたように思う。

  ===

  サッカルの街に着いた途端、新しい旅のプランが飛び出した。ここから飛行機で首都イスラ
  マバード、さらに、最北部のギルギットまで乗り継ごう。私のうたた寝は、パキスタンの短
  い旅(15日間)の計画だった。とりあえず、リクシャーで空港まで走った。約5キロ。電
  話で確認している間に、飛行機は飛び立ってしまうかも知れない。
 
  空港ゲートで5Rs支払い、立派な建物の正面に乗り付けた。警備員は英語が話せない。そ
  のうち、身なりのよい紳士が出て来て、午前11時発イスラマバード行きは、たった今、飛
  んでしまったことを教えてくれた。午後便もない。最北部『ギルギット』まで飛びたいなら、
  今日の午後便で『カラチ』まで戻り、『カラチ』→『イスラマバード』→『ギルギット』と
  乗り継げると教えてくれたが、それでは面白くない。陸路で北上してきたのに、飛行機で振
  り出しに戻るなんて、人生ゲームなら最悪だ。

  私は夜行寝台で北上することを決めた。さらに、当初目的にしていた『バハーワルプール』
  を通過し、一気にアフガニスタンとの国境の街『ペシャワル』まで行くことを決意した。で
  きるなら、国境まで走る蒸気機関車に乗り、アフガン難民の実態を視察したい。次に、ペシ
  ャワルから陸路で、カラコルムハイウェイと呼ばれる中国とパキスタンを結ぶ山岳道路を北
  上したい。

 

  (写真上)真実は確かめていないが、これがパキスタン南部に塩害をもたらしているダムだ
  と思う。とにかくでかくて広い。日本と比較するなら、有明海や長良川の『ギロチン』と同
  じスケールです。いやいや、それ以上ですね。だって、インダス文明を生んだインダス川を
  塞き止めているんだから、、、もし、これに日本の援助があるとしたら、相当酷いよ! 人
  類の文明の最終章。

 
  (上:インダスの『ギロチン』)

  このギロチンの写真はリクシャーの中から撮った。サッカルのバス乗り場に着いてから、サッカ
  ル空港→ ローリー駅へ貸し切っている。料金は、50Rs+80Rs。まあ、こんなとろこで
  しょう。

  
  (上:ローリーの街で見たラクダ。後にも先にも、ラクダはこれだけ。)

 

 

 
  (上:金色のモスク。のちほど見学に行きました。)

  12.30 ローリー
  駅前のレストランにいる。昼食には満足しているが、今1番欲しい夜行寝台のチケットは購入で
  きない。

  目的地『ペシャワル』行きの列車は、本日3時30分、3番線に入ってくることは間違いないが、
  予約はできない。コンピューターがないからだろう。何でも、走ってきた列車の車掌に、空席が
  あるか訊ねれば良いそうだが、本当かなあ。ここは大きな鉄道駅のような気がするけれど、、、

 

  (写真上)ところで、ここのレストランのチャパティーもまた大変美味しい。焼きたてで油分が
  少ないのは何よりだ。3枚も食べてしまった。カレーはマトン(羊)とジャガ芋。芋は昨日作っ
  たものかも知れないが、腐っていない。

  (写真下)食事をしていると、外が喧しくなった。イスラムの聖職者が登場したらしい。彼が通
  り過ぎた後には、赤い花弁がたくさん落ちていた。素晴らしい。私にはよく分からないけれど、、、

  それから、ローリーの街を撮影した。列車が到着するまで2時間ある。

  
  まずロバでしょう。彼はコンパクトで力持ちです。

 

  3人までの貸しきりリクシャーがほとんどでした。

 

  (写真下)スズキ、と呼ばれる乗合いタクシー、屋根に座るのも日常的です。料金も同じです。
  室内は女性が優先的に座ります。

 

  (写真下)先程のモスク内部。コンパクトながら密度ある派手な装飾。ここではは14、5
  才の少年が、湯気が出ている茶色の塊、ピーナッツとトウモロコシを練ったもの?をスプー
  ンで食べさせてくれました。断る必要はないけれど、勇気がいる食事でした。

 

  (写真下)可愛い子どもがロバ車に乗っている(写真中央やや左)ので撮影しようとしたら、
  その家のおじさんが出てきて、子どもの前に立ちふさがり、ついでに、通行人のおじさんも
  並んでしまいました。パキスタンの人々の無邪気さを感じました。

 

  (写真下)レストランの支配人達。私のPCを充電していたので、メーターがたくさん回った
  と怒っていたけれど、半分冗談のような半分本気のような微妙な感じでした。

 

 

  15.50
  20分遅れの列車が見えてきた。気の早い乗客が開いた扉から身を乗り出している。座席の
  予約状況をもっていそうな車掌の姿は見えたけれど、寝台車は列車の最後尾にあると判断し
  て見送った。しかし、これが失敗の始まりで、2度とそれらしい人の姿は見えない。最後尾
  から先頭まで早足で歩いて、それでも見つからなくて焦って、寝台車らしきところに飛び込
  んだ。すでに5分以上経過していた。

  アラーの神が微笑んでくれたのか、そこで偶然出会った青年に助けてもらい、チケットを入
  手できたが、それは長い道のりだった。まず、ホーム中央に設置してある簡易カウンターで
  空席状況を確認、それから構内窓口に戻ってエコノミークラスのチケットを購入(440ル
  ピー)し、とりあえずエコノミーの席についてから、後でファーストクラスの移動する、と
  いう手順だ。自分1人なら絶対にできなかった。列車の出発が遅れたのは、自分の原因かも
  知れない。

  指示されるままに座席に座り、、ぼぼぼおーっとしていたら、近くに座っていた女性に、そ
  こは私の知り合いの席だからどいて頂戴と言われた。綺麗な英語を話す、教養の高い女性な
  のでびっくり。その隣の人も流暢に英語を話すし、一体ここはどうなっているのだろう。

  そうこうしているうちに、車掌らしき人が2人来て、料金を665ルピー追加して、私の席
  は、結局この車両になった。私がエコノミークラスだと思っていてのはファーストクラスの
  寝台車だった。あちゃー。(パキスタン人の、えっ、そうですか、の意味)

 
  (上:途中の駅で見かけた子ども連れの婦人)

 
  (上:今日の陽も沈んでいく)

  18.00
  今は列車の中でドロップしている。電源があればがんがん仕事するのだが、いつかバッ
  テリーが無くなってしまうかと思うとできない。結局、がんがん仕事をするというのは、
  無駄なことをたくさんすると言うことだ。

  日本に戻ってやりたいことは写真。自分のスタジオを作ろう。何もない白い空間が良い。

  今、コカ・コーラを買って優雅に仕事をしようと思い、10ルピーを支払って飲み始めたら、
  その彼は私の目の前で私の飲み干すのを待っているではないか。こんなことならコーラなん
  かいらないのに、、、。私が欲しいのは液体やブドウ糖ではなくて、優雅でリラックスした
  気分なのだ。

  さて、話を戻そう。私が作りたいのは、自分の空間。否、先に、どんな写真を撮ったら良い
  のか分からなくなってしまったことと、もっともっと狭い範囲で十分なことを記録しなけれ
  ば、、、もっと狭い空間の中で無限の喜びが存在することと、眠くないようにすることと、
  

 

続きをどうぞ!

私の日記 12月27日

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