このページは旅行記『ヨーロッパ北東部』 2004 jul -aug です

杉原記念館
2004年8月2日(月)
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 1940年7月(第2次世界大戦初期)、カウナス日本領事館の領事だった杉原氏は、日本国の命令に違反してユダヤ人の命を救うことを決断しました。ナチスドイツによる迫害(殺戮)から逃れようと、ポーランドから押し寄せてきた難民が、ロシア→日本→?(すみません、忘れました。アメリカ大陸近辺にある小さな島国)へ移動するために必要な『日本の通過ビザ』を杉原氏に求めたのです。彼は、自分の経歴だけでなく自分と家族の命さえ犠牲にして、無償の人間愛のためにビザを書きました。その数は2000通。これによって生き延びたユダヤ人の数は、子どもを含めて6000人と言われています。杉原氏は、この行為によってロシアから2年間の抑留生活を強いられ、日本国からはその地位(職歴)を奪われましたが、イスラエルから平和の人賞を受賞しています。人として正しい行為をおこなった彼の偉業は、世界中のユダヤ人だけでなく、全ての人を愛することができる人々の心に刻まれています。


(上: 杉原氏と婦人の間にある看板には、
『ユダヤ人立ち入り禁止』の文字。)


 自分のホテルから杉原記念館までは歩きました。当時、首都が置かれていたカウナスの日本領事館は、小高い丘の上にありました。とても細い道を歩いていくので、不安になりましたが、閑静な住宅街にぽつんと日本語でかかれた『案内板』を見たときには、ほっとしました。名古屋なら、八事や東山を歩いている感じです。


(上:記念館の看板。)

 記念館のブザーを押すと、感じのよいお兄さんが出てきて、私を招き入れました。


(上:この秘密に写された写真は、射殺される前、裸にされた女性達を記録しています。また、ここに写っている全ての人が殺されました。)


(上:カウナスで掴まり、連行されるユダヤ人)


(上:カウナスの鉄道駅へ、ユダヤ人を見送りにいった杉原氏)


(上:語学は堪能で人当たりがよい杉原氏は、外交官仲間から慕われていた。)


(上:この辺を読んだときは、うるっと来ました。)


(上:生き延びた彼は、杉原氏に対して感謝の言葉が見つからないと言う。)


(上:彼は、杉原氏を天使だとしか思えないと言う。どんなに考えても、見も知らないユダヤ人のために、自分の全てを犠牲するなんて考えられないからだ。)


(上:杉原氏、直筆の言葉)


(上:記念館のお兄さんが撮影してくれました。)

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