このページは旅行記『ヨーロッパ北東部』 2004 jul -aug です

アウシュビッツ強制収容所2
ビルケナウ
2004年8月7日(金)曇り時々雨

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午後2時半頃、無料の送迎バスでビルケナウへ移動。約2Km。歩けない距離ではないが、これからビルケナウを歩き回らなければならないので、体力温存のため利用した。


(上:ビルケナウ収容所の入り口。)

鉄道で入る。

この先のプラットホームで、家族はばらばらになった。
生きて再会できる確率は、限り無く0に近い。

列車を降りる

男女に分けられる

健康な者と弱い者に分けられる


健康な者→ 強制労働→ ほとんど死亡

弱い者→ ガス室へ直行→ 全員死亡


(上:家族の写真が痛々しかった。)

トランクの中のものは、持ち主によって使われることはなかった。


(上:高電圧鉄条網に囲まれた収容所)


(上:厨房? すみません、忘れました。)


(上:一般的な収容所)

ベットは3段になっている。
各段に8人ずつ収容される。

湿った藁があるだけで、毛布はない。

1番下は常に湿っており、ネズミによるペストが蔓延することもしばしばだった。


(上:一般的な収容所)


(上:トイレだけの棟)


(上:ガス室への入り口)


ナチスドイツ軍が撤退する直前、証拠隠滅のため破壊された。


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階段を降りると、

順序良く持ち物を没収され、

全裸にされ、

シャワー室(毒ガス室)へ案内され、

毒ガスによって殺された。



(上:ガス室の跡)


↓↓↓

その後、金歯を抜かれて埋められた。


↓↓↓

毎日、2000人ぐらい殺された。


↓↓↓

大量の死体を移動させ、処理することは
過酷な重労働であるばかりでなく、
正常な精神を麻痺させるのにも十分である。


(上:再現されたガス室)


(上:ビルケナウ収容所の北端から入り口を望む)


(上:ビルケナウ収容所へと流れる小川)


(上:ビルケナウ収容所付近の自然)

もともとは、のどかなポーランドの田舎だった。

だからこそ、何もないからこそ、
秘密を保持できるからこそ、
ここに巨大な殺人施設が建設された。

このすぐ隣の地下には、何10万人もの人骨が埋まっている。

時間になり、最終バスでアウシュビッツ博物館に戻った。

===

クラフクへのバスの時間をチェックし、最終バスを待つまでの時間、
もう一度、オシフィエンチムを見学した。


(上:夕闇迫るオシフィエンチム強制収容所)

こうして眺めていると、どこかのリゾートに来たような気分になるが、
その実態はおぞましい。

次第に人陰がまばらになってきた。
そころそ帰らねば。


(上:見張り塔)


(上:焼却炉)

焼却されたされた人の数は、全体の数に比較して何%なのだろう。


(上:日本語のパンフレットを片手にして。有料2zt?)

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