このページは旅行記『モンゴル旅行記2007夏』 2007 aug. 14 - aug. 28  です。

私の日記 4日目

2007年8月17日(金) 快晴。21℃(6:00am)。標高1445m

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午前:サンギーン・へレム(清朝時代の城壁跡1762年頃)
午後:ホブド(乗り合いフォゴンで10時間)→ オラーンゴム
                一応ホテルに泊まったけれど、車中泊
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5:45
 たった今、腕時計の時間を確定した。そもそも飛行機でホブドに到着したとき、スチュワーデスの案内が間違っていたことが原因だが、モンゴルでは1時間の違いは問題にならない(実は、日本からウランバートルの機内では、1時間半の時差が表示されていた。サマータイムなあ、と思っていたが、そんなものはなかった)。

 昨日、子どもたちが遊ぶゲームセンターにある時計で時間を確認したら、1時間進んでいた。おかしいな、と思い、自動車の修理をしているおじさんの腕時計を見せてもらった。すると、私の時計と同じなので安心していた。しかし、昨日の夕方、スイスの男性と話をして1時間の時差があることを確認した。たぶん、彼の情報が正しいと思うけれど、結局のところ、時間によるトラブルは何も発生していない。私が時間を気にするのは、この日記に記すときだけである。モンゴルでは時間やその基準は重要ではないから、自分が独断で決めればよい、と感じる。これは遊牧民の時間感覚であるが、そのまま空間感覚にも通じる。モンゴルはあまりに広大で、人は少ない。

 結論として、モンゴルにおける私の時間は、私の腕時計だけに従って刻まれている。私の時計が止まれば、時間(および空間)が失われるが、それによって不都合は生じない。日本に帰るための飛行機の日時が分からなくなり、ウランバートルまでの距離が分からなくなるだけである。今の私には時間があるから、辺りが明るくなると同時に起きれば良い。これぐらいの明るさを5時45分とすれば、日本の今の季節感に近くなる。

6:45 朝の散歩
 昨日消去してしまった写真を取り戻すために、同じ場所へ行く。今日は天気がよいので、昨日とは全く違う写真になった。

7:00 朝食
 隣のホテルで朝食をとった。こんなに早くから営業しているなんて感激。

サンギーン・へレム(中国、清朝時代の城壁跡。1762年頃)

上:ホブドの街の北外れにある。私のホテルからは徒歩15分。城壁の高さは1.5m。写真左が城壁内、右がホブドの街。


上:城壁内を歩くカザフ人。彼らはホブド市内にどこかに働きに行く。


上:城壁内で見つけた羊の死骸。土に還りつつある。


上:城壁によじ登って撮影する。左は城壁内、右は城壁北に位置するホブドの街。


上:2枚上の写真と同じ位置から、北側を撮影。


上:サンギーン・へレム西に隣接するカザフ人の居住区。


上:カザフ人居住区には美しい川が流れ、車の土ぼこりを感じるホブドの街とは別世界だ。昨日もここを歩いた時、モンゴルの豊かな自然を感じた。この水は大変貴重なものであり、昔の人々はこれを奪い合ったのだろう。現代日本社会ではダム建設が問題にされるが、日本人を含めた動植物が生存に必要とする水に困ることはない。金もうけが目的、と言い切れるレベルだ。


上:カザフの老人と子ども。手前には羊。

 子どもの手を引くカザフ人に出会った。今は忘れてしまったが、彼の名前は心奥に残る響きをもった音だった。彼は清朝時代の陶器の破片をひろい私に見せた。そして、薬莢(やっきょう)を拾い、銃で撃つまねをした。パン、パン、パン。昔の人は新朝の人々に殺された、と言った。


上:新朝時代の陶片2個と薬莢。

 カザフスタン人の彼には、祖国を離れる何らかの理由があった。誰かに追われたのかも知れない。だからモンゴル人と同じように、清朝の人々の行為を嫌い、何100年も前の出来事なのに、まるで昨年の出来事のように感じている。多くの日本人は外国との関係、外国人が日本に抱いている感情に疎いが、それは日本が島国であること、その島が比較的大きいこと、そしてなにより経済的に大きく発展していることが理由であろう。もし、日本が貧困国なら、諸外国との歴史を忘れることがないだろう。とくに、今の貧困をもたらしている原因となる外国に関しては非常に詳しく語ることができるに違いない。


上:敷地内の草を食べる牛。

10:00 一緒にオラーンゴムへ移動することを約束していた西洋人のホテル
 待ち合わせていたホテルへ行く。彼らは私を待っていたようだけれど、私の期待とは違う行動をとった。これからザハ(市場)の隣の銭湯でシャワーを浴びる、と言う。全ての荷物を持ち、チェックアウトした私とは随分違うが、これが西洋人と日本人の常識(生活や旅など)の違いだ。モンゴル人と日本人の違いに加え、西洋人を比較するのも面白い。

10:30 ザハの西隣にある銭湯
 銭湯の待合室でPCで仕事をしながら、彼らが出てくるのを待っている。

 おそらく30分も待っていないだろう。もっとゆっくりしてくれれば良いのに、、、。料金は900トゥグリクらしい。冷水ではなく温水が出たらしい。

 その足でザハに向かうと、それらしいジープが来た。

 声をかけると、オラーンゴムへ行くというではないか。奇跡といって良い。料金は13000トゥグリク。昨日までに交渉した車は、貸し切りで120000〜150000トゥグリク、あるいは、ガソリン代450トゥグリク/キロだったので、遥かに安い。出発時間は、13時から14時の間だというから、あと2、3時間待つことになる。ただし、運転手の時計は私たちの時計より1時間遅れているから、3、4時間かも知れない。詳細はわからないが、運が向いてきたというべきだろう。

 私は助手席をゲットしたいので、ホテルに戻る2人と別れて車に残った。

 しばらく運転手と話をしてから、荷物を車に置いてザハに入った。写真を少し撮り、食事ができたら申しない。もちろん、荷物がなくならないことも重要である。

11:20 昼食
 ザハの中にある小さな食堂にて。

上:とりあえず、あるものを全て頼んだ。

11:45
 ザハの中の食堂で昼食を終えたところだ。モンゴルに来てから羊の肉ばかり食べているから、だんだん気持ち悪くなってきた。豚肉が食べたい。それから、日本だと同じ豚でも豚の銘柄にこだわっているけれど、ここではまず羊から脱出することが先決だ。スーテーチェもそろそろ飽きてきたけれど、これからが本番だろう。


上:四角いオレンジと青のものは、ゲルの扉である。


上:「野菜を撮らせて下さい」と頼むと、彼女は快く頷いだ。


上:強い風にビニールシートが大きくはためいていた。


上:彼女の父親が写真を撮ってくれ、と頼んできた。


上:キャベツなどの野菜を売る人々。一般的に、生鮮野菜を売る人は明るい。


上:ここでも「子どもを撮ってくれ」と頼まれた。


上:バイクは若者達の憧れであるかも知れない。


上:前にも紹介したが、古いコンテナは非常に良く利用されている。このコンテナは穀物の貯蔵に使われていたが、両隣りは全く違うもの入っているのだろう。また、コンテナは商店として使うことの方が多い。

15:30 ホブド発
 これからオラーンゴムへ向かう。4〜5時間の予定だ。


上:助手席から撮影した車の計器。ロシア製のジープに、ソニー製の計器がついている。


上:私は助手席を手に入れたものの、左には運転手、右にはもう1人の助手(乗客)がいる。したがって、中央に位置する私の股の間にはシフトレバーがある。良く見ると、2駆4駆の切り替えレバーなど4つを挟んでいる。


上:車の修理をしている間、落ちていた骨を拾って遊んでみた。


上:スイカを売る子ども。私たちの車が停まったので、商品の半分が売れた。良かったね。


上:3回目の修理。今回は何もないところで停まった。


上:乗客の1人がウオッカのボトルを開けた。全員で宴会が始まった。私が手にしている盃は、ペットボトルの頭部をナイフでざくざく切り取ったものである。この手製の盃を全員で回し飲みする。もちろん運転手も飲む。そして、車は走り出す。


上:4回目の修理は、ゲル集落があるところで行なわれた。


上:井戸があった。深さは2、3メートル。

23:00 夕食
 どこか分からないけれど、食事になった。走りはじめて7、8時間なので、もう到着していなければいけない時間なのに、、、気にしてはいけない。今を楽しまなくては!


上:食事ができるまでの時間、食堂の奥の部屋でくつろぐ。料理を待つ時間は、脚を伸ばしたり、仮眠したりできる貴重な時間だ。


上:焼うどん風『蒸しうどん』が出てきた。テーブルの上にはウォッカもある。実は、奢られてばかりいるのは気が引けるので、私もウォッカを購入した。3500トゥグリク(400円)。酒飲みのマナーに従い、酒を持っている者が、時計周りに1人ずつに振る舞った。私は大丈夫だったが、乗客のうち少なくとも2人は完全に潰れてしまった。私がいけないのかなあ。

 自分がウォッカを買って飲ませてしまったのが失敗かも知れないけれど、かなり盛り上がったことは間違いない。朝青龍、白鳳、この2人の働きには感謝するよ。

 酔っぱらった日本人は張り手、突っ張り、うっちゃり、押し出しなどをくり出した。モンゴルの友達も、相撲の技の名前をたくさん知っていた。

翌1:30 オラーンゴム着
 車が出発したのが午後3時半で、オラーンゴムについたのは翌日1時半。10時間もかかっているじゃないか。いったい、何がどうなっているのかわからないけれど、運転手はお金を稼げたのかどうかわからないけれど、運転手をすることで皆と一緒に楽しむことができれば、人生を楽しむという第1目的は達成されていると言えよう。ただし、彼が結婚していて家庭で誰かが待っているというなら話は別であるが、、、。

 ホテルはどこか分からない。連れていかれるままの宿しかない。西洋人2人と日本人1人は、かなり高級なホテルのベッドに横たわった。これはぼったくりではなく、本当の親切だと思う。


上:私はツインルームを1人で使用した(翌朝、チェックアウト直前に写す)。


上:寝室の手前には、ソファーと机がある高級なホテルだった。シャワーとトイレもついていたが利用しなかった(同上)。

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