このページは旅行記『イスラエル旅行記2008春』 2008 mar. 22 - apr. 1  です。

私の日記 2日目
2008年3月23日(日曜日)
                      
◎ 終日、エルサレム旧市街散策 ===================
(1)聖墳墓教会
(2)嘆きの壁
(3)ダビデ王の墓
(4)マリヤ永眠教会
(5)ダビデの塔
                        エルサレム泊(2/3)
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 夜中に寒くて何度か起きた。毛布がないので、洋服を着たりズボンを2枚重ねたりした。

7:00 起床
 フロントで深夜に預けたパスポートを返してもらい、2泊料金90シェケルとコカ・コーラ代5シェケルを支払った。そして、パソコンをフロントに預けて、旧市街の散策に出動した。腹が減ったので、何か食べたい。


上:旧市街のメイン道路の石畳。ピカピカに磨かれているように見えるのは朝日の反射ではなく、長い時間の蓄積だ。商店閉まっているのは、観光客のための土産物店が多いからだろうか。8時頃から、ぽつぽつと開きはじめる。


上:旧市街の西(ヤッホ門)から、真直ぐ東へ進むと、どんどん低くなっていくことが分かる。これは、エルサレムの東側に水が流れていたことを物語る。当時の街のジオラマは、博物館になっている『ダビデの塔』にあったものが分かりやすい。また、この道の突き当たりは、現在の『嘆きの壁』や『岩のドーム』になる。

 さっきから小さな食堂を探しているが見当たらない。旧市街を路地を諦めて、戻ってきた大通りに開いていた店は、私が日本人だからわずかに高額な料金を請求したかも知れない。ジュースが7シェケル、パン2つと缶ジュースで15シェケル、アイスクリームが10シェケル。まあ、改めて書き出してみると、こんなものかも知れないなあ。

7:30 聖墳墓教会(イエスが処刑された教会)
 再び旧市街へ突入した。目的地は500mも離れていない聖墳墓教会だ。もう到着して良いはずなのに、それらしい教会は見当たらない。そのかわり、太鼓の合わせてリズム良く歌う男性集団の声が聞こえてきた。その声に導かれるようにして行着いた場所が聖墳墓教会だった。


上:入ってすぐのところにある塗油台の石に接吻する信者。この写真には写っていないが、持参した十字架や聖なる品々を台の上に起き、接吻している人もたくさんいた。


上:詳しいことはさっぱり分からないが、この集団は、長さ2メートル、質量3kgほどの大きな杖を持ち、それを地面にがーん、がーんと叩き付けならが聖墳墓教会に入場してきた。


上:中央にある有名な聖墓。この下にイエスが葬られたと考えられている。私もこの内部に入ったが、母の子宮内のように感じた。そのように感じるためには、参拝者がたくさんいる時間は無理なので、教会が閉まる15分前に入場し、機会が伺うしかない(写真右は2日後の朝に撮影)。朝一番でも良いかも知れないが、確かめていない。

 聖墳墓教会は、入り口がぱっとしなかったけれど、内部はそれなりだった。夕方にも再度訪れたけれど、まだ、中心部には触れていないので、再度挑戦する必要がある。朝は行列ができていなかったから、それが最も重要であることを知らなかった。

8:00 嘆きの壁
 ここの聖地に入るためには、持ち物検査を受けなければならない。と書くとものものしい感じがするが、悪いことを考えていない人なら24時間自由に出入りできるという点において、安全が保証された場所であるとも言える。


上:嘆きの壁の第一印象は、とても開放的な明るい空間、だった。この壁の奥には、ユダヤ人の祖先が神から約束された『カナンの地』の中心ともいえる場所があるが、彼らはその場所に入ろうとはしない。何故なら、その場所に自由に出入りできるのはイスラム教徒だけであり、しかも、もっとも大切な岩がイスラム教徒のドームによって覆われ、入ることができないからだ。もちろん、私も入ることはできない。このドームは、金色の屋根をしたエルサレムを象徴する建造物だが、私はこの事実を確認した時、ドームやイスラム教徒の対応を嫌悪すると同時に、それを耐え忍ぶユダヤ教徒の心の大きさに敬服した。


上:異教徒で、ただの観光客に過ぎない私が、こんな場所まで踏み込めるんだから、ユダヤ人の包容力はとても大きい。


上:正統派ユダヤの人。

9:00 朝食
 すばらしい食事を頂いた。毎朝同じメニューでも良いと思うぐらいだった。ここは旧市街の路地で見つけた小さな食堂で、15シェケル(500円)。午前8時から午後4時まで営業している。


上:ジュースは別で15シェケル。大変な美味。


上:食後のミントティー。まさか、こんなところで出てくるとは思わなかった。モロッコで飲んで以来だ。

岩のドーム
 次に、岩のドームにチャレンジしたが、入れなかった。ムスリム(イスラム教徒)の閉鎖性を悲しく思った。考え方の違いがあることは分かったけれど、とにかく悲しい。一般観光客に開放しないのは仕方ないとしても、自らの聖地とするユダヤ教徒やキリスト教徒が可哀想だ。そもそも、この3つの宗教は同じ神を信じているのに、どうしてこんな差別をするのだろう。ユダヤ教はもっとも古い歴史を持つのに、最近できたイスラム教に占拠されてしまって、本当に可哀想だ。嘆きの壁とはよく言ったものだ。

 ユダヤの人々が悲しい以上の気持ちを抱くのは当然の結末であり、紛争の火種になることも間違いない。このように立ち入り禁止にしてしまうことは、絶対に間違っている。すべての人が自由に出入りできるようにして、非暴力によって話し合い共存しなければいけないと思う。それが神の望むところであろう。ここのイスラムは排他的であり、私は受け入れられることはない。もし、某かの料金を支払って入ることができるなら、それは利権を確保する行為に他ならないから、さらに悪質であると結論付けられる。断っておくが、私は一般庶民のムスリムに対して好意を持っている。宗教を政治に利用したり、私欲を肥やすために利用する者が許せない。


上:この奥には、岩のドームがあるのだが、イスラム教徒以外の入場は許されていない。強行突破すれば、ライフルを持った複数の男に拘束されるだろう。

ダビデ王の墓
 ぶらぶらと歩いているうちに、ダビデ王の墓を発見した。ここでは熱心なユダヤ教が祈りを捧げていた。彼らの信じる心の強さと包容力の大きさはどこから来るのだろう。


上:ダビデ王の棺の前で礼拝するユダヤ人。

マリヤ永眠教会
 内部に入ることはできなかったが、大きくて立派な教会で、がらんごろんと優雅で壮大な鐘を鳴らしていた。


上:マリヤ永眠教会の中庭。ここで昼寝を30分ほどしました。

ダビデの塔
 エルサレムで2番目に印象に残る場所だった。


上:中庭のように見えるところには、さまざまな時代の建造物の遺跡がある。


上:ダビデの塔から旧市街を望む。


上:ダビデの塔から旧市街を望む。中央にある黄金に輝く丸いドームが『岩のドーム』。その手前、右側に私がもっとも注目する『嘆きの壁』がある。


上:今から3000年前にダビデが作った街のジオラマ。これを見れば、何もない荒野に国を作った者に、そこを故郷とする権利が与えれることは当然あることがわかる。他国からの武力による侵略者は、故郷であると主張することはできない。つまり、エルサレムは神との約束とはどうあれ、実在したダビデとダビデを自分の祖先とする者(ユダヤ人)に永住する権利がある。
 また、現在のエルサレムの旧市街は、このダビデの街の北側に隣接部分、このジオラマでは右端となる。これらの位置関係を十分に把握すると、何もない荒野に新しい街を作っていた人間の歴史が理解できる。河川があったであろう部分とエルサレムの急勾配がポイントだ。当時のダビデの街は廃虚となってしまったが、現在は、その北側に城壁に囲まれた『エルサレムの旧市街』として世界遺産に指定されている。 ↑ 朝の時間に戻る


上:私の宿の前の様子。この写真の左端に、私の宿の入り口が僅かに写っており、右側は『ダビデの塔』となる。


上:ここは賑やかなところの1つで、大勢の観光客が行き交う。


上:上の写真2枚を撮影したところと、ほぼ同じ場所で撮影した。正面の白い建物は、私が宿泊した宿『ペトラ』で、私の部屋は2階右端のテラスに白い椅子が置いてあるところ。


上:旧市街を歩くキリスト教徒。


上:聖ヤコブ大聖堂。19:00に閉まるギリギリだったので、内部を見学できなかった。


上:アルメニア人の居住区に来ると、黒ずくめの服で身を包んだ正統ユダヤ人の姿がたくさん見られるようになった。次の写真は、この写真の右側を写したもので、ポイントは一段低くなっている部分に並ぶ4つの柱である。


上:アルメニア人地区中央にある2000年前の繁華街『カルド』の遺跡。4つの列柱は当時のメインストリートで、左に数100m続いている。


上:地下に続く旧繁華街。この先を行くと、土産物屋を中心とした商店が並んでいる。ただし、私は知的障害がありそうな酔っ払いに絡まれて早々に退散したが、商店の人は私に同情の眼差しを送っていた。自力で解決できなかったら、助けてくれたと思う。

 その他にも、非常の面白い動画があるので、準備ができたら紹介します。


上:岩のドームとオリーブの丘を望む。


上:夕暮れ時の旧市街の路地。観光客が店じまいする直前の店先でショッピングを楽しんでいる。


上:旧市街の歩くイスラエルの人。


上:香辛料の香や味を確かめる観光客。


上:旧市街の観光客。


上:閉まる直前の聖墳墓教会。

19:30頃 夕食
 宿の近くのレストランに入った。表通りから500mほど入ったところにあるので、落ち着いた雰囲気だった。


上:挽肉のシシケバブとサラダとビール。

 ユダヤ人地区は、酔っ払いが溢れていた。これは私のイメージを大きく変えるものだった。もっと真面目で厳格な生活をしているものだと思っていたので、かなりびっくりだ。しかし、ここまで自分を解放できるのはそれはそれで1つの才能と言える。私にはとても真似できないし、真似しようとは思わない。ただし、大騒ぎをしていた原因は祭りだった。この事実を知ったのは2日後のことである。

 1日を振り返って、まさかここまで暑いとは思わなかった。まるで、沙漠を歩いているようで、帽子は必携だ。サングラスも欲しいところだが、建物内部を見学することも多いので、とったりはずしたりの手間を考えると微妙なところだ。

続きをどうぞ!

私の日記 3日目
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