このページは旅行記『イスラエル旅行記2008春』 2008 mar. 22 - apr. 1 です。 |
私の日記 6日目
2008年3月27日(木) 晴
◎ 死海、そして、ジェリコ ==================
早朝:死海で浮遊・泥パック・温泉
エンゲディー(バス)→とあるジャンクション(アラブタクシー)→ジェリコ
午前:ジェリコの『悪魔の修道院』
ジェリコ(アラブバス)→?(アラブバス)→エルサレム(バス)→ナザレ
ナザレ泊
==================================昨日の夕食後、お肌の養生をかねて仮眠したつもりが、起きると日付けが変わっていた。
シャワーを浴び、ヒゲの手入れをして、荷物の整理をした。今は午前2時。そろそろ眠くなってきたので、もう一度寝よう。そうそう、ここの泥はとてもオイリーで、腕時計のバンドもつるつるになった。
6:00 起床
上:すでに太陽が高く登っていた。もう少し早ければご来光を拝めたと思うが、それよりも温泉だ!
上:本日の死海.
上:本日の塩柱
上:漂着した枯木右:小さな塩の結晶。これも死海の水量が減少しているからできる結晶だ。
上:水中カメラのパノラマモードで撮影した死海。左半分はアフリカ東部〜紅海〜死海の大断崖。それでは、本日も世界一低い位置にある死海で浮遊だ!
上:ほっほっほっほ。浮いた!次は、死海の底の泥を使ったパック。
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上2枚:かなりヤバい写真であるが、本人と素肌は御満悦である。次に温泉で泥パック。
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上2枚:昨夜と同じ温泉。これも厳しい映像であるが、あー、これで思い残すことはない。ところで、この写真の見どころは、美しい白黒の泥の層と、髪の毛ふさふさパックである。この泥水でできるだけ身体を綺麗にし、部屋のシャワー(真水)は少しだけにして美肌効果を高めれば完璧だ。
上:死海の模型をヨルダン側から見たもの。現在、私は青い部分(死海北部)のほぼ中央の『エンゲディ』にいる。ここはダビデの滝などの水が流れる、沙漠地帯の貴重なオアシスでもある。
右:イスラエル全土を、南から北へ見たもの。一番手前の青い部分が紅海で、左側がエジプト国境、左上がレバノン国境、右がヨルダン国境、右上がシリア国境である。また、上部に見える青い部分は、明日から訪問する『ティベリア湖』で、その北部がゴラン高原である。
また、紅海からティベリア湖にかけて低くなっているのは、アフリカ大陸とユーラシア大陸が左右に離れるように動いているからで、将来、この溝の部分は完全な海になる。現在は、地球上でもっとも低い陸地(標高-400m)として存在している。.
8:00 朝食
昨日と同じように、ユースホステルの食堂で食事をとった後、すぐにチェックアウトした。エルサレム行きの大型バスは、8:42出発予定である。
上:今朝は子どもが少ないが、学校のような食堂。8:42 バスが来るはずの時間
まだバスは来ないが、私の他に6人のドイツ人も待っているから心配しいていない。それより、さっきまで自分が反対側のバス停で待っていたことに驚いた。もしもバスが時間通りに来ていたら、バスはドイツ人だけを乗せてエルサレムに行ってしまったことだろう。何しろ反対側のバス停との距離は200mもあるのだから、、、
上:バスの車窓から死海を写す。さようなら、また来ます!バスの乗客率は30%程度だったので、私は3列目の死海が見える位置に座った。そして、ガイドブック片手に『ティベリア湖』までのスケジュールを考えた。すると、エルサレムに戻るよりも『ティベリア湖』との交差点でバスを乗り換えた方が圧倒的に便利そうなこと、その交差点の近くに魅力的なアラブ人の街『ジェリコ』があることを発見した。私は、バスの運転手に「エルサレムまで行くべきか、ジャンクションで乗り換えるべきか」「ジェリコは訪問可能で、安全か」、と尋ねた。その結果、急遽ジェリコを訪問することになった。
ティベリア湖への交差点を過ぎ、数キロ先にある『ジェリコ』へのジャンクションで降ろされた。ここからは、黄色い『アラブタクシー』を使うことになる。料金は運転手に教えてもらった20シェケルを予定したが、白い『アラブタクシー』が来たので止めてみた。乗客は誰もいないが、明らかにタクシーのようだし、市街まで3シェケルと言うから問題はないだろう。
上:ちょっと危ない感じの白い『アラブタクシー』。1人旅の女性や旅慣れていない方にはお勧めできない。途中、運転手の友だちの家に立ち寄ったが、無事にジェリコの中心部に到着した。3シェケルを渡すと、運転手はアラビア語で料金が違うというようなことを言い出したが、私が「全く分からない」と言うと、運転手は携帯電話の電卓機能を利用して「20」の数字を表示した。私がノーと言うと、数字は10になったが、私は「3シェケルと言っただろう」と言い捨てて車を降りた。これはジェリコの洗礼かも知れないが、日本語を使うほどではなかったので標準的なアラブ人と考えれることができる。
上:ジェリコの街。右が、街の中心にある噴水付きロータリー。
ガイドブックとにらめっこをしたが、正確な位置が分からない。私の地図で目印となるのは警察署だけだが、それが見当たらない。とりあえず、警察官に声をかけてみた。
彼は派出所の位置を指差したが、やっぱり良くわからかった。次に、帰りの足となるエルサレム行きのバスについて質問すると、10シェケルで、すぐ目の前のところから乗客がそろい次第出発することが分かった。
次に、『悪魔のモノストリー』までのタクシー料金を質問した。15シェケルという答えが返ってきたが、警察官と一緒にいた男は、実はタクシー運転手だった。彼は往復で30シェケル、待ち時間サービスということで話が成立した。かなり安い。
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とんとん拍子に話が進み、町のキオスクで水を購入(2シェケル、安い!)して準備完了。実は、イスラエル旅行前に1番興味があった『悪魔のモノストリー』に訪問するばかりとなり、テンションはかなり高くなった。
いよいよ出発する段階になって、運転手の友だちらしき人物が登場し、私に通訳を始めた。運転手は英語ができないのである。話によると、「待っているのはいやだから、、、、」ということだが、「、、、」の部分が良く分からない。もう一度警察官に通訳を頼もうかと思ったけれど、私は片道20シェケルで話をつけた。運転手としては、時間を決めてお迎えに来たかったと思うが、私は時間を制約されたくないから断った。
タクシーを待たせておくなら、そのトランクに荷物を入れておくつもりだったが、それができなくなったので、水を購入した店に大きな荷物を預けて出発した。手頃な『荷物預かり所』がないときには、よく使う常套手段だ。観光客の私に、何のためらいもなく一般庶民価格で『水』を売った彼の目は間違いないだろう。
11:20 悪魔の修道院
タクシーは小さな市内を抜けてから西へ向かった。その先には断崖が続いており、そのどこかに私が目指す修道院があるはずだ。浮き浮き気分の私は、カメラを片手に、いつでも撮影できるように準備した。もちろん、今日は貸し切りタクシーだから、いつでも停まってくれると思うが、、、
上:ジェリコといえば、画面左にある悪魔の修道院。その姿は小さいが、凄い迫力で迫ってきた。
上:近づいてきた。これが断崖絶壁にたつ修道院(モノストリー)。このロケーションは期待を裏切らない。
上:何か赤いものが3つ動いていると思ったら、それはケーブルカーだった。ケーブルカーの始発駅は不明だが、とにかく沢山の観光客が乗ってきている。そんな中、個人タクシーで登場した私は、珍客の1人だろう。
右:修道院へ至る坂道。登り切った先に、修道院の入り口がある。.
左:穀物を処理する農具。詳細は分からない。この修道院は断崖に張り付くように立てられているので、小さな部屋がいくつもあり、そのうちの1つに左の農具があった。
上:入り口から奥へ進み、一番大きな礼拝所に入るところ。ここにいた鍵番の老人は、11:40頃、礼拝場にいた全ての人を追い払い、全ての門を締め、修道院の入り口に鍵をかけた。その後も、いくつかの数10人単位の観光客がケーブルカーで訪れ、坂を登ってきたが、門前払いだった。すごく可哀想! 私は内部を少しでも見物できたので幸いである。
上:一番広い礼拝所。下は、この礼拝場の天井部。
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左上:キリスト像。
右上:祈りを捧げる信者。私が訪れた時、この空間に10数人の巡礼の人々がいた。その中心に1人の神父がいたが、彼は言葉や聖歌を正確に唱えることができなかった。古いヘブライ語なのだろう。付き添うようにしていた女性の信者が、彼に何度も教えていたことが印象的だった。なお、神父の体重は150kgを軽く超えていた。次に、モノストリーのテラスに出た。
上:テラスから眼下を見る観光客。画面左の断崖には、無数の人為的な洞窟が見える。住居だったのか、宗教的施設だったのか、詳細は不明である。
上:ジェリコ市街を望む。ここから展望は良い。しばらくすると、鍵を持った老人が追い出しに来た。全ての巡礼者および観光客は、無理矢理退場させられた。
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左上:聖母子の壁画。
右上:大きな岩が迫り出している部分。結局、2/3ほど見学できないまま、私は閉め出されてしまったが、全く見られない人々のことを思えば幸せだ。
修道院からの帰り道は徒歩しかない。ほとんどの観光客はケーブルカー、あるいは、大型観光バスで訪問するからである。私はすぐ近くにある店で、他の観光客に交じって、絞りたてのオレンジ・ジュースを頼んだ。料金は1ドル、または、4シェケルだったので、私は1ドル紙幣で支払った。ここは有名観光地で、たくさんの人々と訪れる安全な場所の1つなのである。
私は、駐車場にいる大型バスの運転手に「ジェリコの街まで乗せてくれないか」と頼んだが、「これは貸し切りだから」という理由で断られた。これは当然の話であり、まるで日本の京都を思い出しても的外れではない。私は、数kmの道のりを歩き始めた。下り道で、天気も良いのでハイキングに最適だ。
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上の3枚:植物を撮影した。
上:たくさんの水タンクが屋上に設置してある。
上:「アッサラーム・アレイクム」 小さな子ども達が私に挨拶した。私も同じように応えた。ここはムイスラム教徒が住むアラブ人地区なんだ、と初めて実感した瞬間だった。子ども達よ、教えてくれてありがとう。彼らはジェリコ校外の小学校に通う児童で、英語で私の名前を尋ねた。
上:作物の種類は分からない。後ろの断崖に、今回訪問した修道院がある。幹線道路に出るまでの道のりは長かったが、よく整備された灌漑施設や畑がいくつもあった。また、ヒッチハイクも予定していたが、人通りも交通量もなく、英語が通じない数人の人々に帰り道を確認するのが精一杯だった。通りに出たら、街の中心部に向かう黄色い『アラブタクシー』を拾えば良い。
上:幹線道路に出ると、日本を含む各国の国旗を立てた建物があったので撮影した。あとからガイドブックで確認すると、ここはケーブルカーの出発点であり、国立公園『テル・アッスルターン』に所属する建物だったらしい。惜しいことをした。帰り道はたくさん歩いたけれど、昨日のことがあるからたいした道のりではなかった。ケーブルカーの乗り場まで歩いたから、直線距離で5kmということになるらしいが、私の感覚では3kmもない。大通りに出ると、さっきと同じように黄色い『アラブタクシー』を捕まえようとしたが、またしても白いタクシーになった。料金は、乗る前に尋ねた人が2シェケル、と言っていたけれど、私は3シェケル支払った。乗り降りする場所は決まっていないから、外国人の私は僅かに高い料金で安全を購入するべきなのだ。何しろ、ここタクシーの乗客も3人しかいない。
ジェリコの街はとても私のフィーリングに合っているので、1泊したい気分だったが、とくに見学するところもないし(この時点では観光ポイント知らない)、イスラエル各地に歩いてみたいところが沢山あるので、悪魔のモノストリーを見学できただけでも十分に満足しなければならない。
11:50頃 ジェリコの中心部で荷物を受け取る
街に戻った。荷物を預けた店へ行き、冷蔵庫からコカ・コーラを取り出して10シェケルを出した。僅かな釣り銭を『気持ち』として受け取ってもらおうとしたが、彼は受け取らなかった。どうもありがとう。さらにまた、コカ・コーラの料金はイスラエルで最低価格だと思う。たったの3シェケルだった。エルサレムの平均価格は6シェケルで、7のところもあるから。5シェケルで購入できた時、喜んでいた自分が馬鹿みたいだ(私の宿は5だった)。最高にふっかけれらたのは聖墳墓教会の近くで、10シェケルだった。12:00頃 昼食
荷物を受け取り、街のレストランでシシケバブを注文した。30シェケル。シシケバブはどこにでもある挽肉だったが、茄子とダイコンの漬け物は、軽く発酵していて、その酸味に痺れた。
上:ジェリコ訪問大成功に酔いしれた。それからエルサレム行きのバスに乗ったはずが、全然違うところに到着した。10シェケルで安いなあ、アラブバスだからなあ、と思っていたから、案の定、というところだろう。この不明な場所から、エルサレムに行くという36番のアラブバスに乗って、ダマスカス門近くのアラブバス乗り場に到着した。そこから中央バスターミナルまで、また違うバスを乗り継がなければならない。これは大きな時間のロスだった。
14:30頃 エルサレムのダマスカス門
上:エルサレムの旧市街のダマスカス門付近の城壁。自然の岩盤の上に城壁が作られている。15:38 エルサレムのバスステーション
結局、バスステーションに到着して、切符を購入したのは、15時38分で、それから、バスステーションの外に出て、現金100ドルを両替えして340シェケルにして(現金1万円も現金100ドルと同じだから、1万円を使えば良かった)、ステーションに入るためにまたボディーチェックを受けて入場した。17:00 エルサレム発
バスは満席で、私は床に座る羽目になった。あー、もっと早くなら並んでおけば良かった。私は1人の差で座席を失った。同じような人は、他に3人だけ。道は大渋滞で、なかなか進まない。これは毎週木曜日にくり返される帰省ラッシュなのかも知れない。私は気分転換に、i-podを取り出してフランクのバイオリン・ソナタを聞いた。午後6時を過ぎて、4人程の立ち客分の席が空き、ようやく私は座席に座った。なんて楽ちんなのだろう。
バスは今、狭い道を走っている。スムーズに進んでいるとは言えないけれど、私は旅の気分を味わっている。今晩は久しぶりにビールを飲もう。そうそう、今はバスの座席で日記を書いている。
19:00頃 ナザレ着
暗くなってから到着したので不案内だったが、大きな受胎告知教会のドームと方位磁針で位置を確かめた。ガイドブックの地図に従って歩いていくと、ツーリスト・インフォメーションが開いていたので、中にいる男性に情報と市内地図をもらった。こんな時間に空いているのは例外だ。それから、受胎告知教会を訪問しようと中に入ると、1人の男性に制止された。私が日本人観光客で、教会を見学したいと申し出ると、彼は明日の8時に来なさいといった。そして、私の今晩の宿として、シスターズが経営するホステルを紹介してくれてた。
上:右に見えるのが、ナザレの中心に位置する『受胎告知教会』
上:ツーリスト・インフォメーション前の道。ナザレのメインストリートの1本。19:30 チェックイン
とての感じがよいフロントで、部屋も清潔、低価格。すばらしい宿だった。
上:私の部屋。
上:聖母子像。ここまで無事に楽しく旅ができていることに感謝して、思わず両手の指を組み合わせて拝んだ。こんなに純粋に手を合わせたのは久しぶりだった。実は、私が通っていた幼稚園はキリスト教会経営だったので、毎日のように賛美歌を歌い、「天にまします我らの神よ・・・」と唱和していたのである。卒園してからは縁遠くなったが、大学生になってら、懐かしさも手伝って日曜礼拝に参加するようになった。聖書を読み込んだことも洗礼を受けたこともないが、キリスト教には親しみを持っている。ただ、両手の指を互い違いに組み合わせて十字架の前に跪いて祈るという行為は、25年以上前に遡らなければいけないし、この先、もうないかもしれない。もちろん、私が心の中で祈ったことは、この教会に訪れる全ての人々が平和に幸せになることと、私がここに辿り着くことができたことに対する感謝の2点である。20:00頃 ナザレ市街の洋服店でTシャツ購入夕食
ナザレの市街を歩いたが、90%以上の店が閉まっていた。そんな中、高級洋服を扱う店が開いていたので、私は高価なTシャツを買った。日本で購入するよりも高額だった。日本から来てきた古いTシャツは、ここで捨ててしまう予定である。20:40頃 簡単な夕食
落ち着いたレストランでビールを飲みたい気分だったが、適当な店が開いてない。土曜(シャバッド)でもないので、夜が早いのかも知れない。
上:ターキー弁当をお持ち帰りにしてもらった。ただ、肉はあまり食べたくなかったので、25シェケルを20シェケルにしてもらい、野菜をたくさん入れてもらった(野菜の方が安い)。
上:ナザレの中心ともいえる交差点のベンチで弁当を広げた。本当は弁当を作ってくれた店先のベンチで食べたかったが、私はビールを持ち込んでいたので遠慮した。この街での飲酒は、快く思われていない。心静かに飲食しよう。宿に戻ると、フロントで2人の日本人(あるいは韓国人)客がいるとの情報を得たので、ドミトリー(共同部屋)を覗いた。もしも日本人なら、イスラエルで出会った初めての個人旅行者となる。
上:左から上田さん、私、吉川 大さん。若いお2人は、関西学院大学の学生さんで神学を専攻している。ドミトリーの扉を開けると、とても広い食堂に2人の男性がいた。声をかけると、日本人の学生さんだった。私は一目見て日本人だと分かったけれど、イスラエル人には識別できなっかたらしい。
私たちは30分程度情報を交換したり、ユダヤ人の生活について話し合った。彼らは神学を専攻しているので、とても勉強になった。どうもありがとうございます。
上:ドミトリーの寝室。これはドミトリーとしては最高レベルだ。
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3月28日