このページは、学級通信2年D組『枇杷林檎びわりんご』です。

 枇杷林檎 229号(最終版4/6) 2001年4月6日(金)
                         228号と299号は、吉岡先生からの最後のメッセージです。
 
 2日目は、恐怖のハイキングがある。それがあるから稲武も嫌だったんだ。今だから言うけれどね。足には全然自信がない。まぁ、他にも自信のないことはあるけれど、特に足にはない。もう、初めの登りから「うわ、きたきた」って感じだった。「やめたーい。」って思った。でも、そこは教師、やめられるわけないもんね。辛くても辛くないような顔をして、お手本を示さなければならない時だってあるのよ。ここでやめたら教師として廃ると思って我慢したさ。そしたら、平らな道、それも林の中の道でとっても気持ち良かったァ。小唄なんぞ口にしながら、みんなと歩いたよね。しかし、そう長くは続かないもの。またまた難関到来って感じ。この時は、やめようにもやめられなかった。だって、後からみんなが来ているもの。抜け出るところもなかった。そして、最後の難関、今、思い出しても胸が苦しくなるくらい。みんなどんどん離れて、前にも後にも生徒の姿はない。一緒にここまできた3人で励まし合いながら歩いたさ。登ったり降りたり、もう必死だった。センターのスピーカーの声は聞こえるけれど果てしもなく続く細い山道。「こんなんハイキングじゃないよねェ。」と3人でぶつぶつ言いながら、それでもどうにか前夜キャンプファイヤーをやったとことまでたどり着いた。、それから長い長い石段を1段ずつ上がったら、いっぱいみんながいて、途端に体から力が抜けちゃった。そして、すぐに記念撮影。せめて疲れがしずまるまで待ってほしかったなぁ。でも辛かっただけ、それが喜びとなって返ってきた感じだった。「あー良かったァ。」でも、来年もだったら、うわぁー、急に気持ち悪くなってきた。

 昼からは体育館でレクリェーション。室内レク係の人たちの動きの良さと準備のすごさに感心した。がんばったね。楽しい時はすぐに過ぎてゆくものだ。

 いよいよ夜の散歩。2日目、最後のイベントだ。私は片山先生と1日目に、みんながカレーを作ったあたりで待機することになった。いかにも、お化けが隠れているように細い木をビニール紐で結んで、みんなが近づいてきたら揺らしておどかす係だった。広場でみんなが整列した後、一足先にそこへ行こうとするのだが、一寸先は闇。片山先生が「ウウゥー」としきりに怖がる。つないでいる手が震えていた。年上の私は「大丈夫だよ。大丈夫!人間ほど怖いものはないんだから、お化けなんかいたって怖くないさ。」と諭すように平静を装って言った。「そうですね。大丈夫ですね!」と安心されたのか、手にも力が入っていなかった。と、すぐ、「ウウゥー」。「大丈夫!私は心信深いから神仏が守ってくれているのよ。」と話すと、「そ、そうですか、先生すごいですね。」とか何とか言いながら、やっと目的地までたどり着いた。木に紐を結びつけ、みんなが来るのを待った。ちっとも来ない。寝ころがって星空を観察することにした。1日目より、ずっとはっきりといっぱい見られて美しかった。満天の星っていう感じで、うっとりしていたら、遠くの方からにぎやかな声。「来ましたね。」と片山先生と2人で喜んで待っていた。

 「じゃ、そろそろやりましょうか。」と2人でビニール紐を引っぱって木の葉を揺すった。が、みんなはこちらに来ず、まっすぐ歩いて行く。「あれ、おかしいですね。確かこの位置で良かったですよね。」電灯をつけて地図を見る。やっぱり、みんなの方がおかしいと思った瞬間、紐どころじゃない。「こっちだよー。」「こっち、こっち!」と大声で叫んだ。かなり遠くまで歩いていった生徒もいたらしいが、全グループ戻すことができた。「あれっ、先生たち何でこんな所にいるの?」「あー、ふうん、みんなをびっくりさせようと思って隠れとったの」「どうやってェー、やってみてェー」「木を動かしてやっとったけど、みんな道を間違えて行ちゃうんだもん。それどころじゃなくなっちゃった。」とビニール紐を見られてもう大爆笑。帰りは大勢で広場まで帰れたから早かったこと。こうして2日目は終った。

 楽しかった稲武の3日間はあっという間だった。3日目の午前中、民芸教室の紙すきで、もみじ葉入りの葉書を作ったのを今も私の机の下に入れてある。稲武の思いでの品として。稲武が終れば、あとは合唱コンクールにまっしぐら。7月の短縮授業のころ、福地先生1人がサウナ状態の放送室に入って佐藤先生から借りた山のように高く積まれた合唱曲のCDの譜面を読みながら聴いていたのを思い出す。その時、あそこまで指導される先生とは、つゆ知らず、熱心だなァぐらいにしか思っていなかった。今にして思えば、あの頃から始まっていたのだとうなずける。あの放送室の中の暑さは並ではない。福地先生も並じゃないもの。もう私としては、圧倒されっぱなしだった。歌は怒って歌わせるものではないし、かと言って何も言わないと歌わない。担任として、1番頭を悩ませるのが、この頃だ。しかし、福地先生はすごい。すごいとしか言いようがないよね。怒るわけでもなく先生のパワーで歌わせてしまうんだもの。後から見ているだけでも楽しかった。もう「天馬」は忘れられない曲になったね。D組のみんなにとっても。もし、13〜4年後、自分の子どもがこの歌を歌っているとしたら、きっと一緒に歌えると思うよ。その時、D組の練習風景も思い出したりしてね。子どもが一生懸命に練習しているのに「実はねェー」と邪魔して煙たがられないようにね。くれぐれも言っておくよ。自分の子どもの頃を、自分の子どもに聞かせたいと思っている人は、今、自分の親の話をよく聞くことだよ。わかったかな。みんな話したいんだよ。聞いてもらいたいんだよ。特にわが子にはね。合唱コンクールの思い出、ほんとうにありがとうね。

 そして、いよいよ3学期。今年は1月9日が始業式。奇しくも、この日は福地先生の誕生日だったね。もう、この頃から2年生も終りだということを意識した作文が目立つようになってきたね。それは、とてもいいことだと思うよ。はっきりとわかっていることだし、見通しをもって生活することは大切なこと。その時が来ても、決してじたばたしないためにもね。見苦しいまねだけは、したくないもの。

 長々と書き綴ってきたけれど、まだまだ書き足りないことはある。でも、際限がないので、ここでペンを置きます。最後にお礼を申します。

 毎日毎日みんなから喜びを与えてもらって楽しく本当に楽しくやってこれた。「幸せ」の中にいると、それに気づかないと言う人もいるけれど、私は幸せを毎日感じていた。こんなに楽しくて幸せでいいのだろうかとさえ思っていた。そして、何よりも最高のものが残った。これは私にとっての宝物。一生の宝物。普段の生活を飾らず、そのまま書き綴ったすばらしいもの。まさに随筆集だ。その世界の中で1つの随筆集「枇杷林檎」の仲間に入れてもらえたことが1番の喜び。ありがとう。D組のみなさん、本当にありがとう。

 そして、D組のご家族の皆さま1年間ありがとうございました。「先生、うちのお母さんったらねェー」とか「先生、何かしらんけど、母ちゃんがこれ持ってってと言ったんで」と照れくさそうに投稿を渡してくれたり、「お父さん、私のペンネーム知っているだよ」と、よく子どもたちの話の中にご家族の人が登場する。ご家族のお子さんに対する深い愛情をいつも感じていた。だから、D組の子どもたちは素直でどの子も人を受け入れられる心優しい生徒達ばかりだった。こんなに可愛いお子さんを持たれた皆さまはお幸せですね。数々の温かいお言葉やすてきな投稿は本当にうれしかったです。保護者の皆さまに支えられた1年間でした。厚くお礼申し上げます。

 最後に福地先生ありがとうございました。おかげさまで、1年間のびのびと楽しくやってこれました。また、作文を書くのが好きになりました。「枇杷林檎」の編集長ごくろうさまでした。

 それではD組の皆さん、保護者様の今後のご活躍を心からお祈りいたします。

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