| このページは、学級通信2年D組『枇杷林檎びわりんご』です。 |
枇杷林檎 230号(最終版5/6) 2001年4月6日(金)
お 礼 ─ 吉岡先生へ ─
福地孝宏
先生がいなければ枇杷林檎は誕生しなかったし、生徒も保護者も私も幼いままだった。私の人生(教員生活)にとって、1年(1回)限りの経験だと思う。もう、吉岡先生のような人とコンビを組むことはできないと思うからだ。それほどまでに、先生は立派な教師であり、たくさんのことを身をもって実践してこられた。ここで吉岡二三代先生の偉業を書き留めておく。
先生は、毎日、教室の花の手入れをされていた。ご自分で花を持ってこられ、生徒が登校する前に花瓶に活ける。そして、1日が終った授業後、階段前の手洗い場に、バケツいっぱいの水を用意する。そして、教室でみんなを楽しませてくれた花達にたっぷり水をやり、疲れを癒されていた。翌日、元気をとりもどした花たちは、教室で明るく静かに優しく語りかけていた。毛筆を使われるときは、背筋をピンと伸ばして紙一杯にかかれた。3学期の保護者会では、寒いだけだった会場前の廊下に、生き生きとした生徒たちの「書き初め」が先生の表題と共に並んだ。もちろん、会場に飾られた花は、2Dからの差し入れである。
先生の「おはようございます」には、声量以上に笑顔があって、みんなに元気を与えてくてた。ウソも誠も、冗談も真面目も、いつでもどこでも大きく元気な声。とくに、失敗したときは、「うっそー、ごめんなさい!!」と一段も二段も大きな声になるので、私は畏れ多くも何度も「静かに!」と注意した。
生徒は、毎日自分1人の作文を書くだけで良いが、先生は全員の作文を読み、さらに、返事を朱書きされた。毎日毎日。ざっと、計算しても、35人×200回=7000枚となる。体調を崩された時など、1日に36枚ずつたまっていくので、隣で見ていても痛々しかったが、それでも「返事は書きます。」ときっぱり言い切られた。
私は、この1年間『成績個表』を触ったことがない。記入したことも配布したことも回収したこともない。『通知表』も知らない間にできあがっていた。私が「枇杷林檎」に集中できる環境を最高に整えて下さった。毎日の事務連絡も、すべて吉岡先生にして頂いた。職員室では、不健康な生活をしていいる私に「お弁当」「玄米」「さつま芋」「じゃが芋」「甘夏」「カンキツ類」「あら塩」「カラーピーマン」「10年もの枇杷酒」「3年もの枇杷酒」「携帯用枇杷酒」「枇杷ゼリー」「苺」「きんぴらごぼう」「カボチャ」「大豆」「お好み焼き」、その他、季節の野菜や珍しい果物を下さった。
話のついでに、私の怠慢を紹介する。合唱コンクールで燃え尽きたころ、私は8時25分の顔見せ(教室にいくこと)をさぼるようになった。さらに、教室でランチを食べる回数も激減した。もちろん、先生にお任せしておくほうが、生徒にとっても先生ご自身にとっても有意義、かつ、楽しく苦難に満ちた時間であろと思ったからではあるが、怠慢である。
しかし、それによって私は「夢人」として生徒に接することができた。つまり、現実の「2D」と夢のような「枇杷林檎」を間違えないように、余裕をもって行き来した。私は全然厳格ではないけど、いけない時に「いけない」と言う父性的な役割をする以外は、「窓の外を見てください。今日は春の日差しがまぶしいです。あと10日もすると春分になりますが、すると昼と夜が半分ずつになり、明るい春の太陽が、、、」などと、夢見るような話しを静寂の中でさせていただいた。
また、先生の「太陽のようなヒマワリのような明るさ」を誰も感じていた。たわいもないこと(失礼!)で喜び、冗談を言ってもすぐ(ひっかかって)大笑いする。睡眠不足の私が顔をしかめていた時には、「福地先生、頭の下にキャベツの葉っぱを敷いて寝れば、治りますよ。」と話されるので、私は、「だから吉岡先生はすっきりしているんですね。あれっ!先生、頭のうしろについているキャベツの葉っぱ、早くとってください。」と冗談を言った。先生は見事にひっかかって、後ろの髪を一生懸命はらった。冗談とわかると、顔を真っ赤にして笑った。先生の偉業を書き留めるつもりが、だんだん、楽しい話になってきちゃいました。これも、吉岡二三代先生だからこそです。「そろそろベールをかけて!」という願い声が聞こえてきそうなので、、、
吉岡二三代先生、本当に1年間ありがとうございました。
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