takaのメモ帳   2011年1月

Column
1 道徳、倫理、仁義、番長、人間関係、政治、哲学、宗教、法令、校則、規則
2 生活指導の分類
3 学校の隠ぺい体質?と犯罪者を育成するマスコミ
4 国、学校の目的と校則
5 義務教育修了の定義
6 生きる歓びを体感する


2011年1月1日
 明けましておめでとうございます!
 今年もよろしくお願いします!


2011年1月2日
7:20 起床
 せっかく4時過ぎに電話で起こしてもらったのに、もう一度寝てしまいまた。こんなに遅くまで寝ているようではダメです。冬休みに入ってから、PCで教育関係のことばかり調べているので、頭が膠着しているのでしょう。これだけ長時間マックと一緒にいると、「私はマニュアル人間です」と自負できないのではないか、と心配になります。でも、朝からクロッキーの整理をして、久しぶりに手の仕事を見て、「自分にあっている」と思いました。PCも悪くありませんが、それは作業効率が高いだけで私本来の好みではないようです。

 このtakaのメモ帳も昨年12月13日からパッタリ書いていないので、今からちょろちょろっと書いてアップします。でも、ほとんどアトリエにこもって仕事をしているので、何も書くことがないでしょう。意外なことは、チャンスがあれば1日に4、5時間テニスをすることです。普通の人より運動していると思います。太陽も浴びています。

 テレビは全然見ていません。過去20日間でテレビを見たのは合計3時間ぐらいだと思います。まとまって10分以上見たことはありません。朝食の時に、ニュースをちょろちょろ見たぐらいです。スポーツのテレビ観戦は好きなので、サッカー、柔道、フィギアスケートの試合を2回ほど見たかも知れないので、その時間を入れると合計7時間ぐらいになる可能性があります。世間の情報は新聞から得ています。比較的短時間で情報が得られるので満足しています。

 私はこうした鎖国状態みたいな生活が好きです。もう何10年も鎖国を続けていますが、今年の冬休みはとくに情報を絶っています。日本の江戸時代は、大衆(庶民)文化が花開きましたが、私は腐乱した?文化が好きなので、今年の冬休みは特に気に入っています。

 今、発酵させているのは冒頭に述べた『教育』です。私は教育にあまり関心ありませんが、本業として手を抜かずに長年関わってきたので、相当量の経験・知識・技術があると思います。しかも、名古屋市教育委員会が区分した『ある区分の学校』で勤務した時間が長いので、偏った経験を持っていることも強みです。江戸文化みたいなものです。大変な時間をたくさん過ごしましたが、多くの人が体験できることではないので、悪くないと思っています。

道徳、倫理、仁義、番長、人間関係、政治、哲学、宗教、法令、校則、規則
 さて、ちょっと話が逸れたので、本題に戻すと(何が本題か示していませんが)、私の頭の中を渦巻いている事象のいくつかが、1つのグループを形成しようとしています。それは、『道徳、倫理、仁義、番長、人間関係、政治、哲学、宗教、法令、校則、規則』。これらは、もうすぐ1つのものになりそうなので、わくわくしています。と言っても20年ぐらいかかりそうですが、僕にとってはもうすぐです。今は、道徳と校則と番長(不良グループの)をリンクさせようとしています。

生活指導の分類
 
生活指導の分類は不完全ですが、現在、次のように整理できました。生徒の問題行動は、(1)健全な子どもが起こす(成長するために必要な)もの、(2)親の愛がない子どもが起こすもの、(3)障害(心や体の)を持った子どもが起こすもの、の3つに区分されます。それぞれは、(1)教育、(2)相談、(3)援助、に対応します。ただし、実際は単純に区別できなかったり複合させる必要があるので、複数の視点からリンクさせようとしています。僕はリンクさせることや関連づけることが得意なので、複雑ですがやってみます。

 さらに、私が扱う教育の限界についても明確になってきました。法を犯した犯罪者を教育することもできますが、私が扱っている教育は、教育基本法に規定されたもの、学習指導要領に示されたものです。凶悪な犯罪者など、私が扱う教育の範囲を大きく逸脱するものについては、手を出しはいけないことが明確に理解できるようになりました。それは、他の専門機関の機能を阻害することになります。

学校の隠ぺい体質?と犯罪者を育成するマスコミ
 学校が隠ぺい体質を持っている、という批判については一言だけ申し上げます。隠ぺいという言葉は不適切です。なぜなら、不用意にオープンにすることは、犯罪者の育成につながるからです。例えば、授業崩壊の様子を克明に報道すれば、誰もが興味を持って見ます。(大衆は喜び、マスコミは儲かりますが、)その結果、それを真似する子どもが出ます。悪循環の始まりです。同じように、万引き(窃盗)の現場を克明に報道することは、窃盗のレベルを上げることにつながります。自殺方法を克明に報道することも間違っています。真似する人が出るからです。とりあえず、以上1つだけ反論してみました。

 それから、クロッキーと教育は多くの部分でリンクしていますが、私のクロッキーFの活動目標は教育の方が大きいように感じます。ただ、私は美しい平面(たとえば絵画)が好きなので、クロッキーは特別な存在です。私は最終的に、自分の好きなことをしたいです。もちろん、今でも好きなことを好きなようにさせてもらっていると思います。幸せです。現在時刻を調べると、朝の9時40分になりました。

10:10
 今日は朝食を食べていません。ここ数日、朝飯前の仕事をサボっている罰です。一応2時間ぐらいしていましたが、こんな事ではいけません。もっと自分を厳しく躾ける必要があります。それから、えっと、12月29日の計量で体重が64.5になっていたから、栄養オーバーだと思います。が、これから、コンビニでプリンを買って来て、コーヒーと一緒に頂いて、それから、教育関係の執筆をします。目標は12時ぐらいまでの2時間を充実させることです。とりあえず、道徳と校則の予定です。

 これだけだらだら書いたから、少しはしまった仕事ができると思うよ! じゃあまたね。

 良い休日をお過ごしください!


2011年1月3日(月)
国、学校の目的と校則
 今取り組んでいることは、校則です。校則はある学校の内部規定ですが、それを整理する視点について考えています。とりあえず、アリストテレスの目的論を使って、単純に整理していくつもりですが、すぐに壁にぶつかるでしょう。なぜなら、国が決めた目的を頂点とするなら、この作業は簡単に終ると思いますが、実際のところ、私には国の定義がよくわらないのです。歴史をふり変えると、戦争は国どうしで行われる人類の活動です。国家の安全のため、国境を守るため、国益を守るため、これらを達成するための手段として戦争が必要なら、いっそのこと国を廃止すれば良いと思います。ジョンレノンは、1971年にイマジンという歌で「国のない世界」を提唱しています。

 私は、日本国憲法をもう一度よく読み直す必要があります(変更する必要はありません。とくに、第9条は絶対に変えてはいけません。これを変えると日本国が戦争を起こす法的抑止力を失います。変更するなら完全非武装の永世中立国です。そのためには日米同盟の破棄は欠かせません)。あー、どんどん本題からそれるけれど、いつでも政治家は力を求めるから恐ろしい。

 政治学と哲学を学ぶ必要があるけれど、私は現場の人間で、科学的手法を大切にする人間だから、自分の経験から得た真実を書こ〜っと! 私が経験した事実を否定するのは、科学的に不可能だからね。ま、何が事実ですか? と質問されそうだけど、やれるところまでやってみましょう。それが生きる、ということです。


2011年1月4日(火)
9:00 アビリティー

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勤務(/暇)
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18:50 クロッキーF
21:00 二次会(山ちゃん)
24:30 消灯
 今日は自転車で出動しました。


2011年1月5日(水)

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勤務(/暇)
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2011年1月6日(木)
 今日は保健所で検診があるので、1日休暇を頂きました。中途半端な時間にあるからです。朝からゆっくり仕事をし、午後から植木の植え替えをするつもりです。

10:50 テニスラウンジ
 久しぶりにドクターのレッスンを受けました。とても的確なアドバイスをたくさん頂き、本当に素晴らしいドクターだと思いました。また、機会を見つけてレッスンを受けたいと思います。

13:30 昭和保健所

 夜になって残念なことがありましたが、それは新しい始まりになれば良いと考えています。


2011年1月7日(金)

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勤務(始業式)
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19:00 テニスラウンジ


2011年1月8日(土)
3:50 起床
10:30 テニス
 今日は15時まで楽しくテニスをしました。でも、連日テニスをしているので、右肩まわりが凝ってきました。デスクワークで疲れているのかどうか、よく分らない状況です。

22:10 つけ麺(桜)
 こんな遅くに、ディープな夜食を頂きました。食べてから寝ると太ると言いますが、あまり気にせず、エアコンを20度Cに設定して眠ります。おそらく、喉がからからになると思いますが、しっかり眠れると思います。


2011年1月9日(日)
4:20 起床
 暑くて毛布を蹴飛ばしていました。良く眠れたので良かったです。それから、今日は自分が新生するようなことをしてみようと思います。教育問題については、昨晩から『いじめ』に関する新しい視点が湧いてきたので、それを執筆したいと考えています。他にもたくさん気掛かりなことがありますが、順番に片付けなければいけません。

11:00 テニス
 16時近くまでやりましたが、右肩周辺と全身の調子が悪く、良いプレーができませんでした。そうそう、木曜日と金曜日、2日連続してラケットのガットを切りました。僕にとっては珍しいことです。新しいラケットと靴を買いたいのですが、時間を作りたくないので、古いもので我慢しています。靴は9ヵ月前に買ったものですが、靴底から針金が出てたので、ペンチで切りました。左右とも出てきて、長い方は15cmぐらい切りました。ペンチで引っ張れば、その倍は出てきたかもしれません。とかにく長くて吃驚しました。はき心地が一気に悪くなったのは、気のせいではないと思います。プレーの質が悪いのも、これが原因かもしれません。


2011年1月10日(月、成人の日)
 今日起きた時間は忘れましたが、あまり早くありません。昨夜10時からサッカー日本代表チームの試合をテレビ観戦したからです。ずっと観ていましたが、あまり面白いものではありませんでした。監督が2つの獲物を追ったからでしょう。結果と内容。そんなことはしていけないと思います。どちらか1つにしなければいけません。あるいは、2つを融合した違うものを1つ。かく言う私もたくさんのことを同時にやっていますから、ダメです。2つどころではないので、本当にダメだと思います。ダメだけれど、それしかできないから、そうするしかありません。そうするしかないことをしている、という意味では1つなので、それで満足することにしましょう。

 ところで、今日はテニスをしませんでした。午前も午後も、今からでもチャンスがあるのですが、しません。ビールも飲んでいません。教育関係の記事を4.5本書きました。私の人生で1番多い日なのでは、と思います。それから、それほど集中していませんが、教育の全貌と人間社会が見えてきました。いじめについては、執筆していませんが、かなり明確です。自分で定義できるレベルに達しました。あとは、執筆したいという欲望が沸き上がるのを待つだけです。今は笹善で盛り合わせラーメンを食べてきたばかりなので、腹一杯でぐぅぅーーです。ストーブ全開にして、あたっています。赤外線があたっているパーツ、すなわち太ももの一部分がとても熱くなっているので、何度も足を組み換えたりしている状態です。

 それから、今日のお食事は2回だけで、コーヒーは4杯かな。お昼寝みたいなものは2回でした。今からどうしようかな。やっぱ集中力がないから、歯磨きをして横になります。僕は横になって考えるふりをするのが大好きなのです。良い感じに発酵するんじゃないか、と思うからです。そして、やる気が出たら起きます。ではまた。おやすみなさい。


2011年1月11日(火)

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勤務
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18:20 クロッキーF
21:00 二次会


2011年1月12日(水)

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勤務
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2011年1月13日(木)

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勤務
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2011年1月14日(金)

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勤務(3年定期テスト4初日)
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19:00 テニスラウンジ


2011年1月15日(土)

18:50 ヒビカート練習風景撮影(アクティノン)
22:30 まぜめん(ときわ)
24:00 消灯


2011年1月16日(日)
8:30 起床
 昨日は疲れたので、ちょっと遅くまで布団の中にいました。

義務教育修了の定義
 外は雪です。青空ものぞいていますが雪、、、じゃなくて、今書きたいことは、教育のことです。最近、ますます教育のことがわからなくなっています。でも、私は分らなくなってきたことを、とても嬉しく思っています。これは、教育の深い部分を探検している証拠だからです。まず、義務教育修了の定義が分りません。だって、ある年齢に達しただけで全員小学校卒業、中学校卒業、という現実が変です。1日も学校に来ていない生徒、学校に来ても暴れるだけの生徒、授業を真面目に受けない当然の結果としてオール1の生徒、人間関係のトラブルで誰とも会話できなくなっている生徒、などなど、どういう基準で義務教育を修了するのでしょうか。保護者の義務が終るということなら、私は理解できます。保護者や教師の義務がなくなる、生徒に教育を受けさせる義務がなくなる、大人が義務から開放されて自由になる、ということなら理解できます。なるほど! 理解できた。そうなら、理解できた。これは簡単なことだった。生徒は、ある年齢に達すると見捨てられる(自己責任になる、といえば当たり障りがないだろう)になるわけだ! それならそれで理解できる。入学手続きを完了し、ある年齢に達した時に卒業の意志を示して学校長が認めれば卒業できる、という現実が理解できる。

 次に、学校とか教師は要らないんじゃないか、と思っています。そもそも、私は国や宗教もいらないと思っているので、その延長線上で考えれば、この問題はいとも簡単に解決できそうです。うーん、しかしだ。どうなんだろう。現在の国や宗教がその形態を変える必要があるのと同じように、今の教育もその形態を変えなければ良い? のかなあ。うーん、まず、学校については、同じ年齢の者、同じ目的の者が集るから楽しいよなあ。みんなでいることは楽しいよ。それで、その目的達成を援助する教師がいれば、なお、楽しいよな。だから、やっぱり、学校と教師はいる。理由はみんなが集る場所、みんなが学ぶ場所、みんなの目的を援助してくれる人、という意味でいる。それを国が保証するなら、国もいる。おー、国まで必要になってしまった。

 ところで、国というのは、同じ考えの人の集まりではない。同じ考えだったら、、、、と書いたところで、上のパラグラフの学校の定義に問題があった。上の学校は専門学校だ。全員が同じ目的をもっていることを前提にしていた。つまり、事前に、多様な価値観を知り、たくさんのことを体験した上で、自分の好きなものを選択して、その結果、自分の自由意志で集ってきた者による、専門学校を想定していた。これなら、当然、誰が考えてても楽しいし、あって欲しい。でも、現実は違う。未熟なもの、何も知らないもの、親から愛を受けなかったもの、異なる考えや思想を持つもの、身体の障害を持つもの、精神の障害を持つもの、孤独の中で育ったもの、英才教育を受けたもの、さまざまな者の集合体が、義務教育の学校であり、国家です。つまり、雑多なものの集りという点で、学校と国は等しい。

 いろいろな考えを持った人が集ったものが義務教育の学校なら、それは国と同じだ。それなら、国は何をするのか。教育をする。次に、何を教育するか、なぜ教育をするのか。雑多なものに何をしようとするのか。画一化、統制は不適切だと思うが、現実の教育は、いつでも国家による洗脳の危険性を孕んでいることは間違いない。・・・外は激しい雪になった。道路一面雪になった。今年1番の雪だ。今、歩くことはできないし、午後からテニスをする可能性は0になった。

生きる歓びを体感する
 私は、教育の目的は『こと』だと主張します。生きる歓び。これは2010年2月21日、私がクロッキーFの館長挨拶で使ったものです。是非、全ての国家において、この言葉を『教育の目的』の中心にすえて欲しいと思います。少なくとも、日本国は、次の学習指導要領の改定でお願いしたいと思います。生きる歓びとは、生きる歓びです。生きていること、それを歓ぶことです。生きることはとても大変で、野生生物を観ればわかるように、自然界は生死をかけた闘いの連続です。私は今、暖かい部屋でキーボードを叩いていますが、ベランダの植物はとても弱っています。死んでしまうかも知れません。私は小さなビニール温室を買ってきて、寒さに弱い植物4つを選んで入れましたが、この先も冷たい雨や雪が降り続くようなら死んでしまうでしょう。私も同じように、部屋の外に出たらキーボードは打てません。死ぬかも知れません。でも、こうして仕事ができるのは教育のお陰です。私は歓んで仕事をしています。窓をあければ、死ぬほど厳しい自然があります。

 したがって、教育の環境は、死ぬほど厳しいところから始めなければいけません。歓びから歓びなどというものは存在しません。厳しい現実があるからこそ、歓びがあるのです。初めから暖かい布団と美味しい食事があるのでは、歓びは得られません。と書いたところで、窓がとても明るくなりました。何と青空が出て、路面の雪が溶けめています。テニスコートは水びたしだと思いますが、もしかしたら誰かプレーしているか知れません。生きる歓びは、困難と同じように誰も予測できないものなのでしょう。だから生きることは楽しいのだ、と思います。

 次に、人間が生き延びる条件として、集団をつくることがあります。その集団内で歓びを得るためには、集団の中に困難がなければいけません。・・・? ん? 集団をつくる目的は生き延びることで、それは、厳しい自然環境の中で『生きる歓び』を感じることになる。けれど・・・現実の人間社会は、その集団そのものが変だ。・・・気楽に書いていたつもりなのに、疲れたので終了! また次回。

520132件 2011年1月2日 08:30

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