takaのメモ帳   2013年2月

Column
 後輩が私を軽々と乗り越えられるようにすること


2013年2月6日(水)
2:50 起床
 いつもどおりの自然な目覚めでしたが、今日の仕事がありません。仕事するために起きたのに、仕事の材料がないのです。つまり、昨年9月から放置していた理科の授業記録の整理が終り、実際の授業に追いついてしまったのです。ふー、これで週3回授業と同じペースになります。ほっと一息ですが、残念な気もします。ま、いつかは終わる日が来るわけですから、今日がその日、ということです。よくがんばった、と自分をほめておきましょう。さて、ここで、冬休みを返上してこの仕事に取り組んだ動機を紹介します。

 それは昨年12月23日、近くの銭湯で湯上がりテレビをちら見していたときの話です。テレビ画面に、私と同年代の女性バンド・グループが映っていました。私は知りませんが、有名な方々のようです。彼女達はグループを解散し、結婚・出産・育児などそれぞれ充実した生活を送っていたそうですが、2011年の東日本大震災をきっかけに、自分達でもできることを探したそうです。そして、グループを再結成して活動を始めたそうです。少し練習すれば昔の感覚が戻るだろう、と考えていたそうですが、かなり練習時間を使ったそうです。そして、そんな自分達のライブ活動で元気になる人が少しでもいるなら、演奏活動を続けるべきだ、と考えたそうです。

 ということで、私も自分にできる活動があり、それを喜んでくれる人がいるならするべきだ、と思い再開したわけです。テレビ番組の多くは営利目的で心が貧しくなるものが多いものですが、久しぶりによい刺激を受けました。

 理科のために放置してきた仕事は、これから再開したいと思います。このメモ帳ももう少し書くようにします。ではまた。

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勤 務
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18.30 クロッキーF
21.00 二次会
 その後も日本酒を頂きました。少々飲み過ぎたようです。


2013年2月7日(木)
7.15 起床

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勤 務
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2013年2月8日(金)
4.30 起床

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勤 務
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 3連休が始まりました。振り返れば、

 ここ2ヶ月で、バイクが盗まれて保険で返ってきたり、こけて怪我して治ってきたり、放置していた授業記録処理を完了したり、などがありました。人を活動を分類すると、壊れたものを修復するホメオスタシス的活動、何かを放置するエントロピー増大的活動、新しいものをつくる創造的活動の3つに分類できます。過去2ヶ月の主な活動は、修復作業的要素が多かったようです。私は修復を好まないので、辛かったです。どちらかというと、創造(=破棄)活動を好みます。もちろん、古いもの壊れたもの見捨てられたものは大好きです。矛盾も好きです。

 それ以前の活動で印象に残ったことは、何も変わらない自分を確認したり、ここには記述できないことばかりだったり、キューバ音楽家達に魅了されたり、などです。今も音楽を聞いていますが、上質な音楽は心を安らかにさせます。知的にコントロールされた技術によって、本能が興奮させられるからでしょう。

 危ういけれど確かな空間、という絶妙なバランス感覚。私は、的確な時間と色彩によって構築された音楽に心奪われます。僕にはとてもできないなあ、という尊敬や尊重や畏敬感覚を抱きます。以上、Andy Sheppard の1987年7月の演奏を聴きながら記述しました。

 と記しましたが、自分以外はみんな自分と違うから、全てはかけがえのないものだから、とりたてて特記するべきものではないと思うし、全ては気楽に流すべきだ、と思います。

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 それから睡眠を挟み、周辺部の仕事をしています。ここでいう周辺部とは、比較的すぐにできるルーティーン通りの仕事です。何の変化もなく、安心・安全。スピードを追求すれば良いだけの仕事です。思考や判断を含む仕事は大変ですが、楽しいものです。それをつまらないものに変質させる要素は、自分のプライドです。ここでいうプライドは、外見を気にすることではありません。自分に対する妄想です。大したことはできないのに『自分は凄い』と勘違いしていることです。つまらない活動をしようとする心構えは、時に重要です。できるものはできるし、できないものはできない。できることの遂行は簡単ですが、できないことをできないなりにやることはプライドとの格闘になるわけです。こうして文章にすると簡単なことですが、現実はなかなかできません。

Column:後輩が私を軽々と乗り越えられるようにすること
 今年1月2日に記した小さなメモから
 
自分の目標が明確になってきた。後輩が私を軽々と乗り越えていくこと。乗り越えてもらうことは当たり前だけれど、できる限り軽々と、こともなげに通過していけるように努力することが私の新しい目標だ。そのためには、自分の全てを分かりやすい形にして提示する。この作業こそが私の生きている価値。遅ればせながら、もうすぐ半世紀+1年の誕生日を迎えようとしてる私の新発見だ。


2013年2月19日(火)
2.00 起床
 久しぶりに早くから仕事しました。やっぱり早朝は気持良いですね。頭が冴えます。ところで最近、科学と自然に関する本を読んでいます。方程式が出てくるのでちょっと難しいのですが、長年同じようなことをやっているので、少しずつ慣れてきました。理解ではなくて、『慣れる』です。私は高校の数3までは楽々でしたが、それ以降はさっぱりです。大学入試で満点を取ることは数学の本質と関係ないからでしょう。

 それでも、私は数学の愉しさを少し味わったようです。答えが1つという単純さ、美しさ。それは、浮き世離れした麻薬のようです。数学は完璧明解、誰でも同じ結論になります。また、答えを出すための道具(足し算、引き算、かけ算、割り算、集合、確立、行列など)を手に入れたと実感した時、テストで100点しか取れなくなった時の喜びは格別です。

 しかし、数学を産み出した自然は違います。自然は完璧な美しさを見せることもありますが、自然は多様です。(自然の本質は多様!?) 自然は、完璧を嫌うようです。自然は数式によって表現できるように見えますが、私は儚い夢を追っているだけのように感じます。

 天体の運動を説明しようとしたニュートンは微積分、F=ma、相対性理論などを産み出しました。F=maはとても美しく、本当にうっとりします。私はその意味を完全に理解できませんが、力=質量×加速度で表現されることに感動を覚えます。しかし、ニュートンのF=maはアインシュタインのE=mc2(エネルギー=質量×光速2)によって、間違ったものになってしまいました。がっかりです。

 私は、アインシュタインのE=mc2も、やがて新しい方程式によって間違いになるだろうと思います。それは完璧に美しいもののように感じますが、きっと違います。それは歴史が証明しています。新しいもの(方程式、数学、自然、理論、感覚、それ以外のもの)によって食べ尽させてしまうでしょう。人類が発見した自然法則や自然に関する方程式の寿命は花火にように儚いものですが、一瞬や錯覚であっても追求し続けたいと思う美の1つであることは間違いありません。

 自然を相手にする限り、100%は不可能です。自然を記述する方法として数学は強力な道具ですが、永遠に自然を記述することはできないと思います。もちろん、数学と同じように自然を限定したり定義したりすれば可能です。

 自然とは何か。自然は完璧な美しさを見せることもあります。しかし、冷静に考えてみれば、それは極めて稀です。それは永遠ではなく

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