このページは旅行記『パキスタン』PAKISTAN DEC.2003- JAN.2004 です |
私の日記
12月31日(水)
◎ マドヤン散策とミンゴラ・ブトカラ遺跡 ===============
・ トレッキング(マドヤン村→ カラガイ村)
マドヤン(乗合いバス)→ ミンゴラ
・ ブトカラNo1、No3遺跡
ミンゴラ(乗合いバス)→ タキサラ
タキサラ泊
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6.30 起床
マドヤン村から1、2時間山を登ると、6000メートル級の山々を望められるらしい。
ぐっと寒さを我慢して、朝日に輝く神々しい姿を拝ませてもらおうと計画しているけれど、
今日もぶ厚い雲。(たぶん・・・)まだ暗くて確かなことは言えないけれど、冬のこの季
節は全然ダメな様子。遠い日本でガイドブックを開きながら、スワット河やカラコルムハ
イウェイでの眺望を楽しもうと考えている人は冬に行ってはなりませぬ。凍えるだけです。
7.00 朝食
ちょっと明るくなってきたので、とりあえず朝食。寒さに震える小さなテーブルが1つし
か見当たらない店に入り、チャパティーとチャイを注文。客は私の他に1人しかいない。
彼の皿を覗くと、何だか白いもの(写真下の中央)・・・ミルクのようなチーズのような。
これを焼き立てほくほく、千切ると湯が出てくるチャパティーですくって食べる。私は半
分残してしまったけれど、癖になったら毎日欲しくなる健康食品だった。(ただし、正確
な味は冷たすぎて分からない。原料は『山羊』の乳。)
7.45 カラガイ村へ
ということで午前7時45分になったが、いつ雨が降ってもおかしくない肌寒い空気を吸いなが
ら、ぐんぐん歩く。と、上からピックアップトラックが降りてきた(写真下)。地元の人がたく
さん乗っている。季節外れに山道を歩く外国人を物珍しそうに見ていた。目的地、カラガイ村の
人々かも知れない。
フードを出して頭から被り、首回りの空気が逃げないようにした。このジャケットは防水じゃ
ないけれど、それで十分ぐらいの小雨が降ってきた。
雨よ止め、と念じながら歩き続けたが、ついに断念。雨が強過ぎる。これ以上高度を上げれ
ば雲の上に出れる! なんて想像できない。地元の人も勧めないんだから。
(民家がぽつぽつ見え始めていたのでカラガイ村についていたのかも知れない)
帰り道、「日本人か?」と声を掛けれた。雨が強くなってきたので、誘われるまま彼の家に
入った。正確には、彼の実家の敷地内にある来客用のコテージ。このように記述すると清清
しい部屋を想像するが、実際は小さなベットと机、何冊かの教科書、畑で採れた木の実に埋
もれている。彼は、大学から帰省した冬休みの間、この部屋で勉強をしているそうで、机に
積まれていた何冊の本の中から彼が専攻している植物学のノートを見せてもらった。基礎的
な植物細胞のスケッチから始まり、光合成、ATP回路、植物ホルモンの作用など日本の大
学と変わらないレベルまで勉強していた。パキスタンの大学も侮れない。ただ、彼の大学に
は顕微鏡が数台しかないようで、私が日本の中学校には顕微鏡が生徒1人に1台ある話をす
ると、信じられないと目を大きくしていた。物はあっても勉強しなければ意味がないから、
日本は物質によってダメになっている、金や目に見える数字に囚われている、と日本の現状
を付け加えようかと思ったが、話が長くなりそうなのでぐっと我慢した。
彼の弟が緑茶をもって来てくれた。彼は高校生だけど英語が話せなかった。
ひとしきり話し終えると、彼は私を市場まで送ってくれると申し出た。
途中、小学校を訪問。物音ひとつ立てず集中して学習している教室に、ずかずか教室に入り
込んだ。なんでも、この小学校の経営者は彼の叔父さんで、ここで教えている17才の先生
も知り合いだ。
(写真上下)
ごめんね。緊張させてしまって、
それに引き換え、小学校へ潜入した日本人は笑顔で記念撮影。本当に困ったものだ。
凍えた身体でマドヤン村に帰ると、大きな鍋から白い湯気を立てて人を集めている屋台を発見。
引き寄せられるままに(写真下の)スープを注文した。スプーンで何が入っているのか探って
みると、器の底から大豆が出ててきた。良質なタンパク質をいっぱい含んだ健康的な昼食なの
である。
それから自分の服を探した。(写真下の)パキスタン男性が着ているものは大人から子ども
までオーダーメイドなので、既製品はない。1日あれば仕立ててもらえるが、その時間がな
くて残念。料金は布地と仕立て代込みで220ルピー(440円)。
他の店も回った。
女性用の生地は1着分に切り取られ、首の部分から全身までビーズ入刺繍が施されている。
下の店では、すでに仕立てられたものがあったので、母の土産物として買った。ぶかぶかな
ので大丈夫だろう。スカートのウエストは150センチ以上あり、細い紐で結ぶようになっ
ているが、このスカートのつくりとはき方は男性のズボンと同じである。
メイン道路に面した肉屋には、解体したばかりの山羊が肉の部位よって分けられ丁寧に並んで
いる。(写真下)寒い冬だからか、それとも清潔にしているから、それとも新鮮すぎるか、一
匹の蝿も飛んでいない。
150ルピー/日
4500ルピー/月
・ 妻と6人の子供
・ タクシードライバー
・ 400000ルピー(80万円)
・ 運転免許をとるのに9ヶ月
午後1時にミンゴラに到着するかなと思ったのは大きな間違いで、もうすでに12時10分。
何とか2時には到着したいものだ。
13.30 ミンゴラ着
約束していたファサンの店に立ち寄る。彼が経営するパソコンが20台近くあるカフェを見
学したり、私のHPにアクセスした。人が集れば食事が始まるようで、写真下のように食べ
物が整った。近所で買ったきたばかりの熱々チャパティー、同じく市販の豆カレー、奥さん
が作った羊カレー、それに、ヨーグルト。親族一同集まって、わいわい喋りながら、全部の
皿がなくなるまで昼食会が続いた。
時間が許せば何泊かしたいが、これから先のスケジュールが立て込んでいるので早々に
お暇した。ファサンさん、本当にどうもありがとうございました。
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17.10 ミンゴラ発
次の目的地は、ガンダーラ仏教の中心地と呼ばれる『タキサラ』。出発時間が遅れたので
今日中に到着できるか心配だけれど、頑張ってみる。ミニバスの中では疲れて熟睡した。
20.00
「着いたぞ。」と言われるままに降りた場所は、マラダーン。目的地のミンゴラではない。
夜空には綺麗な星が瞬いているけれど、一体ここは何処なんだろう。ミンゴラまでのバス
はあるのだろうか。今日はここに泊まろうと、半分諦め、ミンゴラまで行きたいんだけど
・・・と歩き回ると、同じバスに乗っていた男性が助けてくれた。「このバスに乗れば良
い。私も同じ方向に行くところだ。」
(上:私を案内してくれた男性。彼はクエッタの出入国管理官。いい男だ。)
今は、新しいミニバスに乗ってマックを打っている。出発時間は分からない。食事をした
いが、ジャンキーな食事しかないので、それなら夕食を抜いた方がましだ。昨日買ったマ
ンゴジュースだけでは悲しいけれど、頭の中は冴えている。
さらに30分ほど待って出発した。料金の65ルピーは私の隣に座った男性が払ってくれ
たので驚いた。先ほど、私を助けてくれた男だ。ここから80キロ、時間は1、2時間だ
そうだ。途中片道3車線のよく整備された有料道路もあった。料金所は少なくとも4箇所
はあった。
ドライブインでは、チキンとライスを食べた。あまり旨いものではなかったが、タキサラ
に着いてからでは遅過ぎるので、結果として、ここで食べたのは正解だった。彼は私の代
金も払うと申し出たが、今度は私の番だ。彼のベビーシッターの食事を奢らさせてもらっ
たが、60ルピーにしかならなかった。
(上:ドライブインで働く料理人。私のカメラをみて撮影を依頼してきた。)
目的地のタキサラでは、またまた分からない場所で降ろされた。市場も博物館も何の目印
もない幹線道脇。はー、時計は2003年12月31日午後11時30分。新年はストリートで迎
えるのだろうか。除夜の鐘も年越し蕎麦もないけれど、とほほ、危険な香りはしない。H
6の鉛筆の芯に心細いけれど、日本の大晦日より安全だ。
タクシーの運ちゃんが「博物館?」と声を掛けてきた。私の目的地を言い当てるだけあっ
て、料金は高い。150ルピーから60ルピーまで下がったものの、そこから動かないの
で夜道を歩いた。街路灯は明るいし、ガイドブックによると1キロの距離だから、、、し
かし、100メートルも歩かないうちにリクシャーに同じように声をかけられて、博物館
まで3キロあることを知り、30ルピーで乗った。正解だった。
博物館の前に着いたが、目的のホテルがない。道路を挟んだ正面に2つ並んであるはずだ
けれど、1つは閉鎖されているようだ。もう1つは立派なつくりなので高額な料金が提示
されそうだけど仕方ない。ぷるぷる震えながら路上で新年を迎えるのは悲し過ぎる。正面
に回ると広い前庭があったが、南京錠に行く手を阻止された。ピンチ! よじ登ることは
簡単だけれど、泥棒と間違えれるのも悲しい。弱々しい街路灯にガイドブックをかざし、
少し歩いたところにあるホテルを訪ねることにする。この近辺には3つホテルがあるのだ。
真っ暗な道を進み、最後の頼みのホテルがあるべき場所に着いたけれど、灯りはなく、全
面シャッターが閉まり、可能性は限り無くゼロ。
街路灯がついている博物館前のホテルに戻る、その途中、庭先で仕事をしている人を見つ
けて声を掛けた。隣のホテルは休みだけど、自分のホテルはやっているそうだ。嬉しい。
さっきの門まで戻り、開けてもらった。部屋には大きなガスストーブがあり、体が一気に
暖まった。もっと贅沢をしてホットシャワーを浴びたり、暖かいコーヒーを注文できるけ
れど、ここはぐっと我慢して、ストーブに暖まりながら明日のスケジュールを点検した。
新年を迎える前に、眠りに着いたと思う。
(上:私の部屋。翌日、出発前に撮影したので乱れている。)
・ TAXILA
・ Shehryar Motel & Resraurant
◎ 寝る前の独り言
日本では4時間前に新年を迎えていたが、新年とは一体何ものなのか。とくにカシミール
地方に住む人々には、日にちも曜日も関係ない。2004年を迎えることにも意味がない。
日本には新年を迎える文化があるけれど、それが本当に有意義なことか日本民族全体で再
点検する必要がある。師走、年度決算、忘年会、大掃除、除夜の鐘、年賀状、新年の挨拶、
新年会・・・意義とかねらいは嫌いだけれど、日本人はいろいろなことをやり過ぎ? い
や違う!? 浪費社会の悪癖をだらだら引きずっている可能性があるから、雰囲気に流さ
れることなく自分のやりたいこと、本当の文化といえるものを継承したり新しい文化を創
っていく必要がある。そのためには無駄が必要だから、無駄と最高峰として『テレビ』を
捉えることも可能かも知れない。
ここパキスタンには文化や豊かな食生活より、宗教と平和を感じる。パキスタンの男性は
私に対して、フリーセックスの国、日本から来た異教徒として女性の話題を持ち出すこと
が多いけれど、それは小さな問題だ。彼等との中心的話題は、国際政治の抱える問題。経
済的には貧しいけれど、パキスタンは隣国の不幸を憂うほど、精神的に豊かな国だ。しか
も、日本の自衛隊派兵が(いかなる目的であろうとも)イラクの民間人の死傷者を増加さ
せることになることも予知しているから驚きだ。平和ぼけした世界を知らない大半の日本
人とは違う。アメリカや日本の政府の目的を熟知している。パキスタン人は、自国と隣国
の平和を願い、毎日真剣に考えている。そして、熱心に私にアラーの神について教授して
くれる。
この国を旅していると、イスラム教しか見えくなる時がある。平和な宗教的生活。問題点
があるとすれば、彼等が自分自身を「貧しい」と感じていることだ。金や物質はなくても
豊かな精神生活を営んでいることを自覚して欲しい。それに対して、日本には金と物質は
あるけれど精神生活は貧しい。隣国を援助してやろうとか、救援してあげようとか、貧し
い人々を助けてあげようと考えている。他人を援助しようとする発想は、自分の立場を優
位とする前提があり、自分の優位性を維持しようとする無意識の欲望に過ぎない。援助し
たいなら、自分達もそれと同等の援助を要求しなければ相手を見下していることになる。
日本国民は、他人に対して「貧しい」「かわいそう」という言葉を使うな。偉そうにする
な。人は、それぞれに豊かな部分持ち、持っていない部分を求め合う生き物なのだ。互い
に足りないものを補いあい、分かち合い、譲り合い、多様な物質や価値感は同時に満たす
ことは永遠にあり得ないことを理解した上で、お互いを尊敬合い、助け合って生きていく
しかない。
(上:ホテルのテラスで、街路灯に映し出された木々の梢を写す。)
===
もう1つ、ほどんどの人が私に訊ねることがある。「パキスタンをどう思う?」「私の故
郷をどう思う?」この質問が発せられる理由は分からない。もう1度パキスタンを歩くチ
ャンスがあったら、この問いの答えを解き明かすことができるかも知れない。
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