このページは旅行記『イスラエル旅行記2008春』 2008 mar. 22 - apr. 1  です。

私の日記 初日
2008年3月22日 土曜日           快晴
                      
◎ イスラエル旅行初日(名古屋からパリ、そしてテルアビブへ) ==
自宅(地下鉄)→ 金山(名鉄)→ セントレア空港 10:00(エールフランス)
→ 14:40 パリ18:40(エールフランス)
→ 翌0:05 ベングリオン(テルアビブ)国際空港(乗り合いタクシー)
→ 翌2:00 エルサレム
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 今回の旅の準備はゆったりしていた。日本と同じような生活をイスラエルに持ち込めそうだからだ。気候は九州ぐらいなので、衣服も迷わなかった。撮影機材とパソコンも、前回のモンゴル旅行の経験を生かして素早く決定した。

 それより、なぜイスラエルを選んだのか記しておこう。まず、第1条件は11日間という短期間で楽しめること、第2に私がこれまでに旅行したことがないこと、第3に気候条件が悪くないことである。その候補として、キラウエア火山(ハワイ)とイエメンが挙ったが、イスラエルは政情が安定しているうちが良いだろうと判断した。

1:00 パソコンの準備完了、消灯
 午後11時頃に消灯するつもりが、インターネットでパソコン・ソフトのアップデートしているうちに思わぬ時間になった。今回のパソコンは2世代前のMacintosh G4 なので、何度もくり返して細かくアップデートをくり返す必要があった。やはり、パソコンの準備に時間がかかったけれど、i-Podと接続できるようになったのは収穫だった。/ 目覚まし時計を4時間後の午前5時にセットして横になった。

5:00 起床
 これからイスラエルに到着するまで、24時間近く横になれないかと思うと、ベッドがとても名残惜しかった。最終パッキングをしてから実家へ向かった。

6:50 地下鉄『荒畑』
 前日にネットで調べた時刻表を使って、『荒畑』6:50発の地下鉄に乗った。『上前津』で6:59発に乗り継いだ。

7:16 名鉄『金山』は平日のようだった
 地下鉄の乗客率はまずまずだったが、名鉄はたくさんの乗客で溢れていた。よくよく考えてみれば、小中学生の春休みはまだはじまっていないし、制服姿の高校生もいた。列車内で温かい缶コーヒーを飲もうとして自販機で買い込んで私は、大人しくリュックに仕舞った。満員電車で立ったまま飲むことはできない。

8:05 セントレアのチェックインカウンター
 何の問題もなくチャックインした。私はいつものようにカウンターに並んでチェックインしたが、驚いたことに、自分で画面を見ながら座席を選べる自動チェックイン機があった。これは移動式で、まだまだ利用者はすくなかったが、次の旅では是非利用しようと思う。これを使って発見した場合は、荷物だけを係員に手渡しするシステムになっている。


上:いつものチェックインカウンター。ただし、今回は航空券引き換え券(バウチャー)はなかった。私のパスポートを提出すれば、購入した航空券が分かるのである。もちろん、旅行代理店が事前に郵送してきた『電子航空券(ET、Electronic Ticket)』もあるが、なくてもよい。ただし、国内外の空港に入る時は航空券を証明するものがないので、持参しないと入場が困難になる可能性がある。


上:新しく導入された国際線自動チェックイン機(国内線ではない)。この機械の下にはキャスターがあり、ころころと移動する。あまり知られていないようで、専用の係員がいるのに、ほとんど利用されていなかった。

8:30 空港内の手荷物検査
 おっと、ここで引っ掛かった。まず、私の腕時計が金属探知機アラームを鳴らした。次に、靴底がゴムボンドで補修してあることを見破られ、脱いだ靴がX線にかけられた。さらに、満員の名鉄電車で飲み損ねた缶コーヒーを捨てろと言われたので、その場で飲んだ。当たり前である。お陰で、他人が検査される様子をつぶさに観察できた。新しい旅の楽しみ方である。私の他にもペットボトルの水を注意されている人がたくさんいた。

10:00 中部国際空港から離陸
 ほぼ予定通りの時間に離陸した。私はファーストクラストの境目だったので、足を伸ばして寛いだ。パソコンも使いたい放題で、新聞も料理もまっ先にもらった。


上:取りあえず、サントリーのプレミアム・モルツから入った。

 機内食を食べ終えてから、飛行機の反対側通路に座っていたK先生の席へ移動した。10年以上前に同じ学校でたくさんの難問を解決して番長制度を断絶させたときの苦労話や、先生がイタリヤ旅行をされたときの話をした。その間に缶ビール4本、ワイン6本ぐらい消費したと思う。客室が暗くなってからもテンションが下がらず、大声なって隣の乗客に注意された。どうもすみません(私は小声でしたが、、、同罪です)。


上:このエールフランスはJALとの共同便なので、日本食らしい「菜の花のおひたし」「鴨や鮭の薫製」を楽しめた。

21:50
 パリまで25分の距離にきた。飛行高度は10000Mを超えている。飛行機に乗っていた時間は、12時間強だった。

日本時間22:15 パリのシャルル・ド・ゴール空港着
 日本とは8時間の時差があるので、パリは午後2時15分。


上:パリの国際空港で飲むカフェオレ。日本円とドルの価値が下がっているので、2.7ユーロが痛い。5ドル紙幣を出してもらったお釣は、見たことがないよいうな小額ユーロ硬貨だった。これを飲みながら日記を書き、それから待ち合い室の椅子の上で寝た。他にも何人か寝ているので気兼ねすることはなかった。


上:いくつかの椅子は肘がないので、4つ占領すれば完全な真横になれる。これがなければ、もちろん床に寝るつもりだった。

パリ時間 18:40
 予定通りに飛行機は離陸した。これから4時間半後、翌日0:05に到着する予定だ。


上:おフランスの機内食は、デザートのチーズが美味であった。

翌0:05(イスラエル時間)  イスラエル着
 テルアビブ近郊のベングリオン国際空港に着陸した。興奮も緊張もない。ただ、パスポートに入国スタンプを押されないように注意するだけだ。

 飛行機から降りて入国審査へ向かう途中、私は数分間の尋問を受けた。ほとんどの客は係官の横を素通りする中、私は約1/10の確率で捕まった。そこでは、何のために来たのか、どこへ行くのか、宿泊場所はどこか、『マサダ(地名)』へは何をしに行くのか質問された。私は事前に、ガイドブックを読んで宿泊場所になりそうなところのページを折り曲げておいたので大変スムーズだった。出国時の練習になったと考えればよい。/ 係官は私を解き放つと、次の乗客がつかまった。

翌1:20 入国審査
 ノースタンプといってパスポートを差し出すと、何の問題もなく簡単な質問を受けただけで、別紙に押された入国スタンプとパスポートが返却された。入国審査を通過してすぐのところに2人の係官が立っていて、私の別紙を受け取り、それを真っ二つに引き裂いてゴミ箱に捨て、「オッケー」と言った。私もオッケー、といって通過した。パスパートは見るまでもない。ただし、実はパスポートにもスタンプが押されていた事実については、
別ページを参照。

 空港内の案内所で、エルサレムまでの行き方を尋ねたが、エルサレムと発音していたのでは通じない。ジェルサラム、って感じかな。地名はきちんと発音しなれば他の場所に行ってしまうことがあるので、しっかりチェックしなければいけない。いきなりつまづいたけれど地図で確認した。深夜だったので、私は個人タクシーを覚悟してたけれど、乗り合いタクシーの情報をくれたので嬉しかった。

 また、現地通貨に両替えするための銀行は、税関を通過する前にあるのでうっかり出てしまわないことだ。ここで50ドル程度両替えしておくべきだろう。レートは良くないが、わずか数%の損失に過ぎない。もちろん、アメリカドルでも十分に通用するし、換算率は空港内の銀行よりも良いようだ(わずか数%だけど)。


上:ベングリオン空港を出て、すぐ右手に乗り合いタクシーがたくさん止まっていた。自分が行きたい行き先を言えば、運転手が自分のタクシーまで案内してくれるだろう。もちろん、個人タクシーの運転手はもっと積極的に声をかけてくるのでしっかり断って下さい。


上:私が乗った乗り合いタクシー。定員8人ぐらいだったと思う。満席になるまで15分ぐらいかかったけれど、私が指定した『旧市街のヤッホ門』で降ろしてくれるので、個人タクシーと比べて遜色がない。料金は、空港案内所の話では12ドル(40シェケル)だったけれど、私たち乗客は50シェケルずつ支払った。深夜料金なのでしょう。

翌日 2:00 ヤッホ門
 旧市街を取り囲む城壁の門に入った。午前2時は不安だったけれど、現地の空気に危険な匂いはなかった。むしろ、タクシーの車窓から新市街を見た時、酔っぱらい浮かれた人々が途切れなく歩いていたことに驚いた。安全なのか危険なのか、観光客なのか現地人なのか、さっぱり見当がつかなかった。これは後から分かったことだが、この夜は『プーリーム』というお祭りの1日で、仮装して飲み歩くらしい。日頃は飲まないユダヤ人も、この祭りのときは良く飲んで弾ける、ということだ。

 私はヤッホ門のツーリスト・インフォメーション前にあるベンチに腰掛け、ガイドブックを開けて予定していた宿の場所を確認した。ベンチの隣には2組の酔っ払いがいたけど、全然怖くなかったし、必要あれば教えてもらおうとさえ思った。

翌日 2:30 チェックイン
 第1候補の宿は呼び鈴を押しても返事がなく、第2候補は門限があるようだった。次に、安宿『ぺトラ』のブザーを押すと、扉が開いた。入ってすぐのロビーには、10人近くの若者がいくつかの幾つかのグループになって談笑していた。起きている人々の多さに驚いた。

 私は個室ではなく、ドミトリー(共同部屋)を頼んだ。今晩はシャワーを浴びて寝るだけなので、ドミトリーで十分だ。60歳を過ぎたオーナーらしき男性がドミトリーの扉を開けると、淀んだ部屋の空気が流れてきた。うえっ! 8つあるベッドが全て塞がっていたのでほっとした。次の部屋も臭気が漂っていたが、幸運なことに一杯だったので、新しい部屋を開けてくれることになった。おかげで、私は8つのベッドを1人で使えることになった。そこは新鮮な空気で、しかも屋外のテラスから見る旧市街の景色は私を十分に満足させてくれた。


上:この写真は良く写っているが、実際は綺麗ではない。ただし、これだけのスペースを独占できるのだから、かなり幸運だ。私はマットレスを2枚重ねて、上段で寝た。

翌日 2:40 温かいシャワー
 まさか、こんなに大量の湯が出るとは思わなかった。長い移動時間の汗をサッパリ洗い流してからベット横たわった。日本からイスラエルまでの長旅が、こんなに順調にことが進むとは思わなかった。


上:部屋のベランダで、乾杯! 背景はダビデの塔、左端がヤッホ門。ロケーションも最高なのである。なお、この缶コーラは宿のフロントの冷蔵庫から取り出したもので、若いフロント係りは深夜にもかからず、冷蔵庫の鍵を開けてくれた。しかも、お釣が出ないということなので、「つけ」にしてもらった。信用度も高い。

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