takaのメモ帳   2011年6月

Column
1 自然とは何か
2 自分が持っている可能性を1つ捨てる


2011年6月7日(火)
2:40 起床
 1つの区切りがつきました。ゆっくり眠ることが1番の楽しみでしたが、身体にこれまでの習慣が染み付いているようです。緊張がとれるまで、もう少し時間がかかるように思います。眠る、という行為について新しい視点を得るチャンスにもしたいです。

自然とは何か
 今回、明確に記述できなかった大きな問題は『自然』の定義です。一般には、『植物や動物(ヒトを含む)などの生物』と『物質の現象(宇宙や物体の運動など)』は、同じ自然の中の異なる分野として扱っています。物理・化学・生物・地学はいずれも自然科学の分野である、と考えている人は多いでしょう。しかし、私は『生物以外は自然ではない』と感じています。

 物理学で論じられることは、ヒトが定義した量や単位、計算方法によって記述されます。その定義にしたがう限り、誰もが納得しなければいけないという点で完璧です。初めに都合良いように決めたのですから、100%完璧になることは当然です。たくさんの、いくつもの現象を単純な公式や法則で説明することは、大きな知的歓びで、私も興奮します。純粋数学を研究している人々が日常生活から遠ざかっていくことを、私は感覚的に理解できます。自分で新しい視点(計算方法)を考え、より単純に広範囲を説明できるようになることは、全世界を理解したような清清しい気持にさせるものです。私は、それはそれで素晴らしいこと、素晴らしい歓びだと思います。

 しかし、生物は違います。熱力学の法則に反することばかりをしています。たしかに、物質レベルでは、物理学や化学で得られた法則にしたがいます。現在、生物は3つの生命現象によって定義されています。私も今回の本にそのように記述しました。しかし、生物は物質レベルの現象の積み重ねでないことは明確です。いくつかの段階で、飛躍的な違いを生じています。多くの人が認める段階は、ヒトという生物が社会をつくったところでしょう。これは、生物と社会(政治、経済、宗教)の境界線です。ヒトは生物であることは間違いありませんが、たくさんのヒトが集まって社会をつくるとき、生物学から違う学問へと飛躍します。これと同じことが、物理学(化学)と生物のあいだに存在するように直感しているのです。

 これを指摘している人は、すでにたくさんいると思いますが、不勉強な私は、誰もが納得する形で表現している人を知りません。少なくとも、科学的な方法で表現(記述)することは不可能でしょう。私は主観を大切にする芸術を愛していますが、おそらく、従来の科学でも主観でもない、新しい視点が必要になるでしょう。私が長年取り組んでいるクロッキーが解決する鍵の1つになれば、それはそれで凄いことです。

 過去1ヶ月、私は生物を集中的に記述しました。生物は多様です。多様であることを求めているかのようです。つねに変化し、自己主張し、存在しよう、生き続けようとしています。自分は自分でありたい、自分自身でありたい。ここに意思があると考えた時、物理学と生物学は隔絶するでしょう。私は実際、隔絶しているように思います。もちろん、関係はしていますが、その関係は、社会学を生物学との関係よりも薄いように感じます。

 たしかに、生物であるための前提条件としての3つの生命現象は認めます。物理や化学によって記述できることは認めます。しかし、それから飛躍した新しいステップに移行したものが生物です。私は、そのステップに移行したところから『自然』と呼びたいのです。なぜなら、私は自分が自然である、と言いたいからです。私は自然の一部です。私は大自然と一緒にいる時、自然を感じる時に、生きていることを実感したり、生きるエネルギーをもったり、歓びを感じるからです。

 このように主張する理由の1つとして、大自然の中に1人でいるときに恐ろしさを考えればわかります。みなさんは、本当に1人で大自然の中で時間を過ごしたことはあるでしょうか。それは、時間と空間を感じない恐ろしいものです。1人旅をよくする私は、本当に道なき道を歩くのですが、疲れて腰を降ろした時の恐怖といったらありません。道がないので道に迷うことはありませんが、風がピューッと吹いたり、草木がかさかさ音と立てたり、急斜面から石が静かに落ちていったりすると、本当にぞっとします。宇宙の中で、自分1人しか生きていないことを確実に実感し、すべての生物が孤立してることを感じます。生態系、地球と生物どうしのつながりなんて全く感じません。1本の草木も小動物も私も、すべてがそれぞれに隔絶していて、必死で生き残ろうとしていることだけを感じます。100%自分が存在しようとしています。一瞬でも隙を見せれば、それでお終いです。生きることは大変なことで、3つの生命現象とは隔絶しているとしか言い様がありません。私は、そのようにして生きている生物達を自然、と言いたいのです。つづく。


2011年6月11日(土)
 昨日、クロッキーFが再開しました。一気にクロッキーの世界に没入できて、最高でした。2次会ではビールをたくさん飲みましたが、肝臓が弱くなっていたからでしょう。軽い二日酔いになりましたが、良かったです。これで、少し自分らしい生活がもどってきたように思います。ただ、今日は予定していたもことが1つできなくて残念でしたが、相手があることなので仕方ありません。これから、少しずつ芸術方面の活動もします。テニスもします。そうそう、今日は名古屋市美術館で東松照明を観てきました。久しぶりの美術館だったので、2時間以上も観てしまいました。良かったのは、モノクロームの頃の写真です。写真としての美しさ、写真という表現方法へのこだわり、対象へのち密なアプローチを感じました。そして、撮影と発表は体力勝負であることを改めて感じました。体力と気力の2つは、作家としての必須条件です。それから、僕は最近視力が落ちてきたけれど、これはとても良くないことです。目は大切にしないといけません。目と脳の働きはとても大きく結びついています。目が見えないと、撮影もクロッキーもできません。


2011年6月30日(木)
自分が持っている可能性を1つ捨てる
 今日で6月が終ります。ということは、2011年前半の終了です。振返ればたくさんの出来事がありました。1番の成果は、2冊出版したことですが、これは本当に大変な仕事でした。まだ2册残っているので、2011年はこれで終了してしまいそうですが、自分の人生にとって大きなことなので頑張りたいと思います。多くの犠牲を払いましたが、何かができるようになる=何かを意図的にやらないようにする、ということにも気づきました。半世紀生きてきて、こんな単純なことにようやく気づいた自分です。自分がもっている可能性を1つ捨てることは、大切な1つを深く得るということなのです。捨てるのは大変怖いことですが、捨てることによってしか得られないものもあります。ここでふと思うことは、中学生においても、自分の意思で自分の可能性の1つを切り捨てる強さを育成する必要があるのではないか、ということです。この問題はとても興味深いので、後日考察します。

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