takaのメモ帳   2011年12月

Column
1 執筆に専念するいくつかの方法
2 幸福の定義
3 直感は、理性の基礎の上にある


2011年12月4日(日)
 教え子のグループ展に行ってきました。とても良かったです。作品2点をお預かりすることにしました。トークもしました。テーマは『タイトルの扱い方』『絵画表現における言葉の位置』『コンセプトと作品』『鑑賞者の力』などです。

 私は1つの作品に対してタイトルや解説をつけるべきだ、と考えています。本当によい作品なら、言葉に負けることなく自分を主張するだろう、最終的にタイトルや解説を忘れさ、言語に依存しない独立した存在として産声をあげるだろう、と考えるからです。

 美術館で解説を長々と読んでいる人をよく見かけますが、作品を観る時間より解説文を読む時間の方が長い作品はダメです。鑑賞者がダメなこともありますが、作品がダメだから解説でも読むか! という展覧会は往々にしてあります。

 作品を見てから解説やタイトルを見ても良いし、言葉がきっかけになって見直しても良いし、より深く解釈する一助となっても良いし、とにかくドウでも良いけれど、最終的に平面作品だけが残れば良いと思うのです。タイトルに負けてしまいそう、などと言う作品は、所詮すぐに消えるでしょう。1から描き直すべきです。言葉から逃げることなく、堂々と真っ向勝負すれば良いと思います。

 とまあ、これは僕のクロッキーに関することで、僕はクロッキーは絵画ではないと思っているからこんなことになるのだろう。絵画とは何か、クロッキーとは何かという根本的な問題、および、自分の立場を明確にして、自分が何をしたいのかはっきりさせる必要がある、ということだ。


2011年12月5日(月)
2.00 起床
 またまた眠れない事件が発生してしまった。相手は商売なので私と土台が違う。今はどうにもならないから、違うジャンルの本を読み直している。反証可能性の意味をより深く理解している自分を見つけて喜んでいる。


2011年12月11日(日)
 皆既月食を観ました。生の自然現象で感動です。人類の力とは比較できないとスケールが大きな自然、天文現象に触れることができて幸せです。自分の原点に還ったような、生き返ったような感覚です。今回はカメラ撮影が目的だったけれど、それがなければもっと集中して楽しむことができたのではないかと思いますが、本当に素晴らしい一時でした。また何処かの地であるときは、また観たいです。また撮影してみたくなる自分がいて困ると思うのですが、、、。


2011年12月25日(日)
執筆に専念するいくつかの方法
 冬休みが始まって3日終りました。その間の1番の収穫は、執筆に専念するいくつかの方法を獲得したことです。コーヒーを飲む前にもうひとふんばりすること、目覚めてから布団の中で考えること、狭い部屋で運動すること、ビールを我慢すること、とても高価で美味しいチェリーを食べること、プレーンヨーグルトを十分食べた後にパウダーシュガーをたっぷり振り掛けて食べること、ブルーベリーを食べること、眠くなってから無理に執筆しないことなど、列挙するとつまらないことばかりで、実際数週間もすれば役に立たないことになるでしょう。新しいコトを始めれば、1から全て新しくつくり始める必要があります。

 さて、現在時刻は20時10分。つまり夜。銭湯から帰って歯を磨き、うまい日本酒を二口飲んで、プレミムモルツを飲み始めたところ。つまり、これから寝るわけです。その前にメモしようというわけです。酒を飲むということはある程度執筆できた、ということなので、2時間程度のロスは許されるでしょう。

 ここから本題になりますが、私がnoteしようと思った動機は、2時間前にとある場所で拝見したコロンビア大学ビジネススクールの盲目のシーナ・アイエンガー教授の講議に触発されたからです。彼女の冒頭の話題が、昨日自分がHP(クロッキーF)に追加掲載したものと同じなのでビックリしましたが、1日早かったのでほっとしました。

昨日掲載したこと
 最後の5分ポーズになって、新しいゾーンに入りました。紙が立体的な石に見えてきたのです。画面のエッジが見えて、その中に自分の描きたい像が浮かんでくるのです。それを誰もが見えるよにする作業は簡単で、とても面白いものでした。イメージは完璧ではないので、それが壊れないように注意しながら、少しずつ、丁寧に作業を進めるのです。

 これは彫刻家ロダンを意識した文章です。彼女も同じように、幸福の追求は個人がもともと持っている本質を探す作業である、というような主旨のことを述べられていました。

幸福の定義
 次に、彼女は幸福の定義をしようとしましたが、それはできないと結論付けました。私はそれでは面白くないので、幸福の定義をします。幸福とは、幸福であると感じること。以上です。なお、幸福感を感じるのは個人です。男女のペアで「幸福だね」と共感しあうことは良くある事例ですが、1人で感じる幸福感の方が大きくなければ、共感は成り立たないように思います。家族や仲間との幸福感の共有も同じです。

 それ以外は妄想や洗脳に近い感覚でしょう。さもなければ離婚や喧嘩のようなことは起こらないはずです。幸福を共有するという目的のために集まったわけですからね。

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直感は、理性の基礎の上にある
 それから、もう1つアイエンガー教授と違う点があります。それは直感に対する考えです。彼女の直感は目の前のことしか判断できない種類のものですが、私の直感は永遠であり完璧です。彼女は、直感を理性の対極に位置づけましたが、私の直感は理性がなければ成り立たないものであり、理性は直感の基礎となるものです。直感は選択する上での最高の方法であり、学習し経験し理性を磨くことでより良い選択を行えるようになるものです。

 クロッキーは直感にもとづく行為であり、直感と行為が直結しているものです。そこに理性を挟む余裕はなく、理性は直感による行動が発動される前の基礎です。行動が起きてからも、常に理性は直感と行動の基礎として、無意識のうちに活動すべきものです。時には数値化されるものですが、それは本能や直感や欲望の基盤となるものです。これは、アイエンガー教授と大きくことなる立場です。

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