タキーレ島の祭
8月1日〜3日
1 私の日記
2 写真集
3 率直なアドバイス
4 タキーレ島への行き方
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私の日記
8月1日
タキーレ島への定期便
前日に買ったチケットを持って、リクシャー(人力自転車)で港へ行く。
8時30分。出発の30分前に船に乗り込むと、現地の人達が一番前の席を陣取っていた。私は見晴らしの良い、船の屋根が終わるところにビニールの座布団を敷いた。出発の時間になると、船頭がライフジャケットをくれた。渡されたのは私を含めた外国人旅行者だけで、現地の人達にはない。
「これで、外国人料金を取るわけだ。」
カナダの旅行者が、老婆に譲ろうとしたが受け取らなかった。
「そんなもの着るか!」
もちろん、私のライフジャケットも2枚目の座布団になった。
しばらくすると、イスラエル人のイザベルとその友達、そして、一人の日本人女性と友達になった。私達は、船長の許可を得てから船の屋根によじ登った。とたんに景色が360度に広がる。
「わーお。」
私達は口々に叫んでは顔を見合わせた。途中に立ち寄ったウロス島では、1ボリビアーノずつ払って、トトラ(葦でできた舟)に乗り観光客気分を楽しんだ。
そして、定刻の12時30分タキーレ島に着いた。
宿泊斡旋所
港には、出迎えの人がいない。良い雰囲気だ。私達4人は他の観光客の後について、急な坂を登った。何回も休み休み登った。
途中、村の少女達から、すばらしい香りのするムニャの小枝をもらった。
坂の上の宿泊斡旋所には、地元の人々が大勢いた。糸を紡ぐ婦人が印象的だ。私は、思わずカメラのシャッターを押した。と同時に、
「この島の人々はとても良い人達だ。」
と直感した。
そして、宿泊斡旋所で入村料と一泊分のお金を払うと、一人の老人が宿へと案内をしてくれた。
ろうそく持参の部屋
宿にはレストランがあり、しかも、アルマス広場(村々の中心)の近くだ。
「ラッキー。」
電気、水道ともに無かったが、宿の主人が暖かく迎えてくれた。私達は、急いで食事をすませると、太鼓の音が聞こえてくるアルマス広場へと向かった。
村のダンス
広場に近づくにつれ、太鼓の音も心臓の音も高まる。
「うーぅ。凄い。」
単調なリズムと踊りの繰り返し。その瞬間から、私は時を完全に失なった。
女達は黒い布に身を包み、広場のふちの方から踊りを見つめる。村長達は正面の椅子に腰掛け、透明な地酒を飲みながらも、その踊りから目を離すことはない。
「どんどんどん。」
「どんどんどん。」
私は、
「ふっ。」
と我に返り仲間の3人を探した。彼等も思い思いの場所で祭を楽しんでいる。
私はカメラのファインダーの中で、再び時を忘れた。
うすのろ馬鹿
日もとっぷりと暮れ、夜が始まった。夕食を楽しみ、会話を楽しんだ。イザベルが、トランプをやろう、と言い出した。ビールも入り、いい気分だ。宿の主人やその子供達も集まってきた。「一緒にやるか。」と誘うと、「やりたい。」と言う。しかし、彼らはトランプを知らないので、ルールの簡単なうすのろ馬鹿を提案した。ムニャの小枝を6本、テーブルの中央に並べた。
「バモサ。」
のかけ声で一斉に回す。バモサとはスペイン語で、
「さあ、やろう。」
の意味である。しばらくすると、
「罰ゲームを作ろう。」
と宿の主人が提案する。しかし、罰ゲームの一番目の犠牲者は主人になった。
「しかし、、、」
である。彼は恥かしがって、何もしようとしない。みんなに、散々はやし立てられたあげく、カセットテープの音楽にあわせて踊ることになった。みんなの手拍子にあわせて踊り出すと、彼は大胆にもイザベルを誘い、一緒に踊りだした。盛り上がったことは言うまでもない。
その後も、彼は負け続け、レストランにいたすべての女性と踊った。
「忘れられない夜になったに違いない。」
8月2日
南十字星と太陽
私は午前2時に起きると、カメラと三脚を持って外に出た。もちろん私一人で。
「カタカタカタカタ。」
非常に寒い。懐中電灯に照れされたところ以外は、全く見えない。
「邪魔者の月はいない。」
道の真ん中にごろんと寝そべった。天の川が、右から左に広がり首を大きく回さなければ全てが見えない。星座は、あまりの数の多さに見当もつかない。やっと見つけたのはスバルで、
「ぼやっ。」
と輝いていたからだ。その中に、眼鏡をかけた私でも10数個の新星が確認できた。
やがて、星座を探すのに飽きるとサソリ座と南十字星の写真を何枚も撮った。
凍えきった私は部屋に戻り、ベッドに潜り込んだ。
「リリリ、リリリ。」
午前5時。目覚まし時計で起きると3人で丘に登り、ティティカカ湖から昇る美しい太陽を見た。
イザベル達の出発
「アディオス。」
彼女達は12時発の船でプーノに帰っていった。同時に、大勢の観光客が来た。
「祭は午後から始まるのだ。」
2人の闖入者
昨日、アルマス広場で、初めて岩崎さんと出合ったとき、彼は三脚に固定されたビデオカメラを覗いていた。彼とは話しがよく合い、撮影も一段と楽しくなった。
午後3時。踊り疲れた踊り手達が、広場横の塀の中へ入っていったので、私達二人も勢いに任せて入った。
「オラ。」
と陽気に入っていく雰囲気ではない。
椅子が一列に並び、男達が姿勢を正して座っている。それに向き合って、女達が黒の布をまとい座り込んでいる。両者の間には、長さ10メートルはあるござが轢かれ、そのうえに数十種類もの芋が置かれていた。彼等は無言のまま、ござの上にある芋をとっては食べ、瓶に入った地酒を回し飲みした。
やがて、最長老の女性から、両手いっぱいに溢れんばかりの芋を差し出された。私達は、礼を言い、食べた。2人の闖入者は、全員の視線を受けている。私は、
「うまい、うまい。」
と言った。実際、本当にうまい。酒もまわってきた。岩崎さんは、ケチュア語が少し喋れるので、一生懸命に話をした。彼等の中から、笑いが出て、雰囲気が変わった。良いのか悪いのか分からないが、素晴しい体験だった。再び、沈黙が始まった。私達は礼を言い、静かに立ち去ることにした。
8月3日突然プーノに帰る
タキーレ島には6つの村があり、それらが順番を決めて毎日踊ることになっている。しかし、今日の村は人数が少なくて盛り上がりにかけるようだ。村人の話によると、8月5日にすべての村が集まって踊り競い合うのだが、私は突然帰ることにした。岩崎さんとコパカバーナでの再会を誓い合い、14時出発の船に乗った。同じく8月5日、コパカバーナで開催が予定されているティティカカ湖周辺の最大の祭を見物するためだ。
プーノ最後の夜
18時30分。プーノの港に着くとバスターミナルに直行した。翌朝、始発のバスでコパカバーナへ発つためだ。時間は確認できたが、バスターミナル付近には宿が少なくて見つけるのに苦労した。ビールと鶏肉を食べ、井戸水で髪を洗ってから寝た。
日記の続き8月4日(独立記念祭のコパカバーナ)をご覧ください。 率直なアドバイス
1 タキーレ島は、アマンタニー島と共に推薦できる。できれば、何泊かしたい。
2 7月末から8月にかけてティティカカ湖周辺にいるのなら、予定を変更しても、
タキーレ島の祭を訪れるべきである。
(1996年は、8月5日にすべての村が集まった。毎日各村ごとの踊りが行われ、
最終日を迎える。詳細は、島に着くくまで分からなかった。)
3 ムニャ茶は是非飲んで欲しい。素晴しい香りと透明な金色は絶品である。
4 土産はプーノの方が安い。
↑このページのTOPへタキーレ島への行き方
1 プーノ市内にたくさんある旅行代理店で、タキーレ島やアマンタニー島のツアーに簡単に参加できる。
2 しかし、それらの島への船のチケットは、プーノの港でいつでも買える。
(船は毎朝8時〜9時に出発する。チケットは片道でも買えると思う。)
それに個人で買った方が、突然島に連泊したくなった場合にもトラブルが少ない。
3 島での宿についてはタキーレ島に、島が管理する斡旋所がある。
全く心配ない。
4 持ち物(お菓子、カメラとフィルム、ろうそくとライター、懐中電灯と乾電池、セーター)。寝袋は無くても毛布を貸してもらえる。↑このページのTOPへ